2023年7月23日礼拝 説教要旨

主がしてくださったこと(ルカ8:1~3)

松田聖一牧師

 

救急救命の最前線として、用いられているものに、ドクターヘリがあります。通報が入ってから数分で、ドクターヘリが出動し、患者の方を収容し、そして病院に運びます。その現場では、看護師、医師といった方々が、次から次へと担ぎ込まれる方々の対応に負われていきます。そういう次々とであっても、治療などは、手を抜きません。必要に応じて、きちんと1つ1つ押さえながら、お互いに声を掛け合いながら、次々とやっていきます。そんな中で、1つのことがまだ途中なのに、別の要請が入ることもあります。そうしますとドクターヘリで、病院に患者の方を運び入れたら、そのまま別のところに向かうということもあります。60秒でそれをされることもあるとのことですから、本当に目まぐるしい現場です。それは命に関わり、一刻を争うという救急医療であるからこそ、次のこと、次のことが、次々とすぐに入って来るのです。そして、すぐ、その次のことに向かって、1つ1つ必要なことを押さえながら、次々と動いていくのです。それは見方を変えれば、1つのことを、後ろに置いて、そしてすぐに次のことに移っていくことでもあるでしょう。

 

イエスさまが、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」働きもそうです。というのは、イエスさまの働きというのは、直接的にケガの治療、病気の治療、癒しということも含めて、人の命、人の魂、人生に関わる働きだからこそ、一刻を争い、素早い対応が次々と必要になってくるからです。そういう意味で、1節にある「すぐその後」と言う言葉には、大変な緊張感があります。すぐ、だけではなく、その後、だけではなくて、すぐ、と、その後、2つがくっついているのですから、イエスさまは罪深い女性に出会い、あなたの信仰があなたを救ったという救いを宣言されたら、休憩を取るわけではなく、すぐに、その後、の行動に繋がっていくのです。そして「すぐその後」の中にある「順を追って」と言う意味も併せると、その次々のことも、イエスさまは、手を抜かずに、順を追って順次正しく行っているということなのです。

 

その行動の素早さと言う意味での、すぐその後ということから、もう1つのことが見えてきます。それは、イエスさまが、すぐその後、町や村を巡って旅を続けられたということは、それまでイエスさまが行かれた町、村で次々とあったこと、様々な方と出会った出会いの中で、良かったと感じることもあったでしょうし、良くなかったと感じることもあった、それらの過去に留まるのではなくて、そこから、次々と前に向かっていこうとしておられる、ということではないでしょうか?つまり、過去に囚われないところ、過去に振り回されないところに、次々と場所を変えて、環境を変えていかれるのです。そのために、次から次へと、新しいところに向かっていかれたとも言えるのです。

 

そういうことは私たちにも、時として必要ですね。場所も含めて環境を変えるということで、これまでのいろいろなことを切り替えられる切っ掛けになります。散歩も1つ。旅行も1つです。引っ越しが好きな方もいますね。引っ越す度にお金がかかるんじゃないかと思いましたら、引っ越す度に、荷物が減りますし、自分の切りかえにもなるとのことでした。なるほどと思いました。別の方は、いろいろストレスがたまる時、畑に出ると、す~とするとおっしゃっていました。そういういろいろな出来事、起こった過去のことに振り回されたり、囚われたり、縛られないように、場所、環境を変えたりしながら、切り替えようとしているのではないでしょうか?

 

では、イエスさまがそういう環境を変えるということをされたのは、ただ過去に振り回されないようにということだけなのでしょうか?いいえ、そのこと以上に大切なこと、すなわち、イエスさまが神さまから与えられた、神の国を宣べ伝えること、その福音を告げ知らせるという、神さまの働きに向かっているからです。神さまの国、福音を告げ知らせることというのは、そもそも1つところに留まらない働きであり、いつも動き回ることです。じっとしていません。それによって、結果として、イエスさまが、それまでのいろいろあった過去からも離れていけたのではないでしょうか?

 

そこに、イエスさまは、12人の弟子たち、悪霊を追い出して病気を癒された何人かの婦人たちを、招き、一緒に向かっていかれるのです。

 

なぜならば、12人の弟子たちも、何人かの婦人たちも、それぞれに過去を背負って生きてきたからです。そしてその過去に囚われていたこと、縛られていたこともあったからではないでしょうか?

 

具体的に、それぞれを見ていきましょう。まずは12人の弟子たちは、イエスさまに私について来なさいと招かれ、イエスさまに従っていく中で、彼らにとって、いいと感じることばかりがあったわけではありません。大変だなと思うこと、本当に辛かったこと、苦しかったこと、そして自分たち自身が、足りない、小さな、弱い者だということを身に染みて味わわせられることも、あったのではないでしょうか?

 

そして婦人たちについても、イエスさまから「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」と紹介されている中に、特に、マグダラの女と呼ばれるマリアについて、「7つの悪霊を追い出していただいた」と紹介されています。この「7つの悪霊を追い出していただいた」は、マグダラのマリアの過去の肩書とも言えるのです。というのは、「追い出していただいた」とあるこの言葉は、過去完了形と言って、イエスさまから、7つの悪霊を追い出していただいたということが、過去のものであり、もう過去のこととして、完了されているからです。つまり、マグダラのマリアから、7つの悪霊に取りつかれていたという過去を、イエスさまが追い出してくださったことで、彼女は、その過去と完全に決別でき、そして、そこから新しい出発を始めているのです。であれば7つの悪霊に取りつかれていたということを、書かなくてもいいと思われるかもしれません。そんな7つの悪霊になんて。。。という想像もつかないような彼女の過去、黒歴史とでも言えるでしょうか、そんなことは省いてもいいと思う内容かもしれませんが、しかし、そうであっても聖書は、彼女には、7つの悪霊に取りつかれていたという過去が確かにあったと語るのです。それを隠すのではなくて、それも洗いざらいに出しながら、そういう過去を持っていたけれども、それらを完全に追い出してくださり、完全に過去のものとしてくださったお方は、イエスさまだということが、証言され、証しされているのです。そして今、彼女が、イエスさまと一緒であること、共にあることを通して、彼女の再出発がもう既にあるということではないでしょうか?

 

それはマグダラのマリアだけではありません。「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」もそうです。

 

ここでヘロデと言う名前は、ヘロデ王のことですが、イエスさまが生まれた時の、ヘロデ王は、このヘロデのお父さんであって、ここでのヘロデは、ヘロデ・アンティパスというイエスさまが、神さまの働きを弟子たちと共にされた場所、ガリラヤなどを治めた王さまのことです。さらにこのヘロデ・アンティパス王は、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネを処刑した王でもあるのです。その王に仕えていた家令、財産の管理人であるクザというご主人の、奥さんのヨハナが、イエスさまと一緒であったということですから、すごいことと言うか、すごい関係になりますね。

 

ご主人のクザは、ヘロデ王に仕える、財産管理人ですから、お金の管理を任されるということは、相当、ヘロデに信頼されていたと思います。お金の管理が任されるということは、信頼されていないとなかなかそうはならないですね。そういう立場で働いていた、クザというご主人から、奥さんのヨハナは離れて、ヘロデ王に処刑された洗礼者ヨハネが、後から来られるイエスさまを指し示して、この方こそ救い主だということを、宣べ伝えていた、そのイエスさまに従い、イエスさまと一緒にあちこちを巡って旅をしているのです。となりますと、ヨハナは、ご主人が、ヘロデ王に仕える家令、財産管理人の奥さんであることで、これまで王に守られてきた過去から、離れているのです。そして離れたこの時、クザというご主人との関係はどうなったのでしょうか?クザはヘロデ王に付いて、肩や奥さんのヨハナは、イエスさまについていますから、そういうことになっているクザの身分、あるいは命は大丈夫でしょうか?

 

そしてスサンナという女性の名前も出てきますが、このスサンナという名前は、新約聖書の中で、ここにしか出てこない名前です。どういう過去があったかもわかりませんが、何かはあったのです。それまでの生き方、人生に。でもそこから離れて、イエスさまと一緒だったということは、イエスさまが、彼女の過去からも引き離してくださって、一緒にというところに招いて下さったからこそ、一緒であったと言えるのではないでしょうか?

 

そのほか多くの婦人たちも一緒であったということですが、婦人たちと訳されている言葉は、単に独身女性のことを指しているだけではなくて、既に結婚された妻、ご主人がいる方のことも示しているのです。ということは、この多く婦人たち、彼女たちも、それまでの過去、家族との関係を、完全に切ってしまったわけではないかもしれませんが、イエスさまと一緒にいるということにおいては、彼女たち自身が、イエスさまと一緒というところに、あるということなのです。

 

それでは、彼女たちがそれぞれに持っている、あるいは抱えている過去から離れて、イエスさまと一緒だったということで、万事解決した状態なのかと言うと、ご本人の中では、完全に決別した過去であったとしても、その過去自身は、あったことですから、なくならないものです。あり続けるものです。そしてその過去を置いて来たということについても、いろいろなことが時には、思い出されながら、揺れ動くこともあるのではないでしょうか?

 

それは自然なことだと思います。過去のことは、あったことですから、その経験と、その時いろいろと受け止め、感じたことも残っています。それについて、あれこれ思うこともその通りですし、それが話題にもなることも自然なことです。ですから、そういう過去のことを、口にしてはいけないということでは全くありません。赦される範囲で、話してもいいと思うところでは、大いに出し合って語り合っていいのではでしょうか?そういう語り合いの場、話せる関係というのは、必要ですよね。そこでお互いに、あれこれ、ああでもない、こうでもないと語り合うことを通して、全部をしゃべることはできなくても、少しずつ整理できるチャンスにもなるのではないでしょうか?

 

彼女たちにも、そういう必要があったのではないでしょうか?だから、イエスさまと一緒に、またイエスさまの弟子たちと一緒に、イエスさまが行かれるところ、次々と行き巡るところに、ついて行って、彼ら一行のために、「自分の持ち物を出し合って」奉仕し、助けて、お世話する彼女たち同士が、お互いに一緒に過ごせること、お互いに自分たちの持ちものを出し合うということを通して、自分たちが、それぞれの関係や、過去から離れたことで、助けられる側ではなくて、助ける側に、立つことができたことで、彼女たち自身も少しずつ癒されていったのではないでしょうか?

 

この時、7つの悪霊に取りつかれていたマグダラのマリアも、ヘロデの財産管理人クザの妻、ヨハナも、自分の過去を変えようとして、過去に立ち向かったのではありませんでした。過去のことは、変えられないものだということも、どこかで分かっていたと思います。そういう意味で、立ち向かうという方向ではなくて、イエスさまと一緒に、福音を告げ知らせる働きと共にあり、一行に奉仕し、神さまのために、自分の持てるもの、与えられたものを出し合って、お互いに助け合うという、良い働きのために、進んで行けたのは、そこにイエスさまが一緒にいてくださったからです。そして、イエスさまに与えられた神さまの働き、福音を告げ知らせるということのために、イエスさまと一緒に行き巡りながら、共に助け合うことを通して、少しずつでも癒されることへと導いてくださったからです。

 

ある年の秋に、地元の音楽ホールを借りて、チャリティーコンサートを開くことになりました。と言いますか、その教会に赴任した時には、開くという計画が既にあったことでした。森ユリさんというゴスペルシンガーの方を迎え、その讃美の中で、メッセージを担当することになりました。そのホールの客席は250ほどでした。そのためにチケットを用意して、250人が満たされるようにと、祈って準備が始まりました。当時、礼拝に来られていた方が10名ほどの教会で、年齢を重ねておられる方々が多くおられましたから、250というのは、ものすごい大きな数字に見えました。でも250満たされるように、とお互いに祈り合いながら、いろいろな方に声をかけていかれました。やがて当日を迎えた時、250席では足らなくなり、補助席を出して対応するほどでした。そんな長蛇の列となって聴きに来られた方々を見ながら、受付で出迎えておられた方々は、しみじみと、こんなに小さな群れ、教会だけど、神さまは、小さな私たちを用いてこんなに大きなことをしてくださった~と心から喜んでおられました。本当に神さまは私たちの思いを遥かに越えて、素晴らしいことをしてくださることを見せて下さったのでした。

 

さて、そのコンサートで、メッセージの時になりました。こちらは聖書のことを初めて聞く方も多くいらっしゃる中で、250人以上の聴衆を前にして、緊張しました。その時、上下、スーツで登壇するわけですが、舞台袖だったか、その直前だったか忘れてしまいましたが、上と下の色が違う!ということに気づきました。下のズボンは紺色で、上も紺色、同じものを持ってきたつもりだったのが、よく見ると上は、喪服の黒でした。でももう直前ですから、どうしようもありません。それで何事もなかったかのように、舞台に出た時、客席は真っ暗で、舞台だけ照明がついていた関係で、来られていた皆さんには、上下同じ色に映ったようで、全然わからなかったようでした。ひやひやしながらでしたが、それでも無事に終えることができ、皆さんも神さまが本当に導いて下さった!と喜んでおられました。それでほっとして、胸をなでおろしたことでした。

 

神さまのこと、福音を伝えることのために、お互いに持てるものを出し合うその時、持っていないものを出し合うのではなくて、持っているもの、与えられているものを出し合えるようになっていくのです。たとい、小さな群れであっても、そこにイエスさまが一緒にいてくださり、お互いが助け合えるように導いてくださるのです。その持てるものを出し合い、助け合っていくことを通して、お互いにいろいろ抱えてきたことも、イエスさまと、一緒に歩むことを通して、少しずつでも癒して下さるのです。

 

主がしてくださったこと、それはイエスさまが一緒に、そしてイエスさまと一緒にいるということを通して、私たちの持てる小さなものでも、神さまが用いて、祝福してくださったことです。それが、どれほどに素晴らしい、お恵みであったかを、神さまは、癒しを与えながら、私たちに共に歩むその中で、分かるようにしてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(7月23日)