2023年6月18日礼拝 説教要旨

癒しを求めて(ルカ8:40~56)

松田聖一牧師

 

ある時、教会のすぐご近所の方から、息子さんの結婚式をお願いしたいとご依頼をいただきました。そのご依頼を喜んでお受けしました。それから何度か結婚されるお二人と、聖書を学び、教会でリハーサルをして、結婚式場での式の運びとなりました。ところが、その結婚式の前日、別の方から、家族のものが亡くなりましたので、キリスト教式でお葬式をしてほしいとご依頼をいただいたことでした。それでそのご家族の方とやり取りをして、結婚式が終わったらすぐに、そのご家族の所に行くということを、調整してから、結婚式に臨みました。そのご家族からは是非披露宴にも出てほしいと言われましたので、時間までということでお顔を出させていただきました。台湾の関係の方でしたので、披露宴の食事は中華料理でした。それをいただきながら、おめでとうございますとご家族の方にもお伝えするんですが、その一方で、召されたご家族のこと、葬儀のことも頭から離れません。おめでたい時でありながら、心からお祝いしたいと思っても、どうしてもこの後のことがありましたので、途中で失礼させていただくことになった時、ご家族の方から、引き留められました。「ぜひもう少し残っていただけたら・・・これから北京ダックが出てきます。ぜひそれを召しあがっていただけたら・・・」とおっしゃってくださるのですが、次のところに行かなければならない時間でしたので、スミマセン~と言いながら、失礼したことでした。結論から言うと、後に予定されていた葬儀が、ご親戚からの反対で、叶わなくなってしまいましたので、結局はなかったわけです。その時、ふと北京ダックをいただいた方が良かったのかも、どんな味だったのか?と思いましたが、葬儀はなくなっても、召された方のご家族のこと、キリスト教葬儀でしてほしいと願ったのに、それができなかったご家族の方々に思いを寄せたことでした。

 

そういう喜びの只中に、悲しみの出来事がやって来ることがあります。悲しみの出来事は、急にやって来ることの方が多いのかもしれません。そんな喜びと悲しみと言う全く正反対のことが、同じ時にあるということも、確かです。

 

それは、イエスさまを喜んで迎えた群衆とヤイロにおいても同じです。群衆は、帰って来たイエスさまを喜んで受け入れ、歓迎しているのです。彼らはイエスさまが帰って来てくださることを待っていましたから、それが叶えられたことを喜び、そして、イエスさまとまたお会いできる、イエスさまが自分たちにまた加わって下さった喜びがあります。しかしヤイロは、この時、12歳くらいの一人娘、せっかく与えられた娘を、病気か何かの理由で失いかけているのです。それはヤイロから大切な一人娘が奪われようとしている、とも言えるでしょう。子どもが親よりも先にいってしまうというのは、親にとって、本当に辛いことです。順番が違うからです。だから何とかしようとしていくのです。

 

そこでヤイロは、喜んで迎えた群衆のところに行って、イエスさまに、ひれ伏し、イエスさまが神さまであるということを受け入れながら、「自分の家に来てくださるように」とにかくイエスさまに来てほしい!「と願った」時、イエスさまはヤイロの家に向かっていかれるのです。その途中で、「群集が周りに押し寄せて来た」とありますが、その意味は、群集がイエスさまのまわりに集まり、イエスさまを押さえつけ、イエスさまを窒息させようとしたということなのです。それは、どういうことでしょうか?実際に、イエスさまが窒息させられたら、大変です。それほどに群衆は、イエスさまがヤイロのところに行かれることを、何とかしてやめさせようとしているのです。それは、せっかく期待して、待っていたイエスさまが、帰って来てくださったのに、また自分たちから離れ、ヤイロに取られてしまうと思ったのでしょうか?イエスさまが、自分たちのところに、帰って来てくださったのだから、これからもずっといてほしい、どこかに行ってほしくないし、ヤイロの家にイエスさまを取られたくない、と思ったのでしょうか?

 

神学校を卒業して初めての教会で6年、過ごしました。教会の方々や近所の方々、その地域の方々にも、本当によくしていただき、お世話になったことでした。そこに何年か前に、お世話になったご近所の方を訪ねる機会がありました。久しぶりにお会いしたその時、開口一番にこうおっしゃいました。「帰って来てくれたん?」いえいえ、そうじゃないです~と笑いながら答えたことでしたが、どうも帰って来たと勘違いされたようでした。そんなお別れしてから20年以上も立つのに、そんなことを言ってくださるのは、有難いことでしたが、その教会に赴任したばかりの時です。教会の方々が、口々に、おっしゃられた言葉がありました。「ず~とここにいてて!ず~とここにいて、私が死ぬまでここにいて。私のお葬式して!」びっくりしました。よく話を聞くと、これまで神学校を卒業して初めてこられる先生が、何人もいらっしゃって、その先生を迎えて、牧師になられていよいよこれから…と言う時に、別の教会から、招聘されて引っ張られて行ってしまうということを繰り返してきた教会でした。せっかくこれから…と言う時なのに、お別れをしないといけないということを繰り返してこられたので、今度こそは・・・という思いがあったようです。それでいきなり、私の葬式してもらわないと困る!という言葉に繋がったんだということでした。それはそうだなと思いました。逆の立場に立てば、せっかくこれからという時に、お別れをしないといけないというのは、寂しいものです。だからここにずっといてほしいという思いが、積もりに積もっていたのだと思います。

 

群衆もそうです。せっかく待って、期待して、来てくださったイエスさまが、ヤイロに取られてしまうと思ったからこそ、押し寄せて来たんです。しかし、群衆の思いは、確かにその通りではあっても、イエスさまは、群集だけの神さまではなくて、すべての人の神さまであり、救い主です。だから群衆といつも一緒にいたら、それでいいというわけにはいかないのです。人を癒し、助け、そして支えていくことも含めて、それぞれに必要としているすべての人のところに、行き廻って下さる神さまです。でもそれは1つところから別のところに行かれたら、もうこれまでいたところにいないという意味ではありません。立ち去っても尚、そこに共にいてくださる神さまです。

 

そうは言っても、群集にとって、かかりつけのお医者さんがいつもいてくれると同じように、イエスさまにその時々に適って、助けてほしい、病気になれば、見てほしいし、癒してほしかったと思います。それは群衆だけではありません。ヤイロもそうですし、12年このかた出血の止まらない女性もそうです。この女性は、12年間、出血が止まらず、体調がすぐれない日々をずっと過ごしてきたと思います。あちこちの医者にもかかりましたが、治ることはなく、むしろ医者通いによって、全財産を使い果たしてしまった、すなわち、彼女は、人生を使い果たしてしまったということなのです。ということは彼女にとって、これからというものが、もうない!ということですし、これからを、考え、これからに期待することも、考えることも、全くできない中にあったと思います。それでも、彼女は、群集がイエスさまを取り押さえに来たことで、イエスさまに近寄ることができる道が開かれていくのです。

 

そしてイエスさまの服の房に触れることができた時、直ちに出血が止まったのです。そこで、この時彼女が触れた、イエスさまの服の房とはどういうものなのかというと、当時のユダヤの男性が日常着ていた服の四隅につけられた長い飾り房のことです。この時男性は、房が四隅についた長四角い、タリートと呼ばれる上着で、長辺3mを超える長い長方形のウールの重い衣を日常着ていました。その服の4隅に付いた長い房の意味は、神さまの御前にいるために、神さまがいつも共におられるということに、覆われるということであり、神さまと自分だけの、祈りの中にいるということなのです。ですから彼女が、その服を着ていたイエスさまのところに近づいて、その房に触れた時、直ちに出血が止まった、癒されたというのは、ただ彼女を苦しめていた出血が止まったというだけではありません。いつも共にいてくださる神さまに、彼女も覆われたということであり、その結果彼女の出血が止まり、癒されたということなのです。さらには、イエスさまご自身が、神さまに覆われているというところに、この女性も招いて、受け入れて、赦して下さっているということなのです。だからこそ、イエスさまは、房に触れたことを、房に触れたではなくて、「わたしに触れた」と受け取っておられるのです。そしてわたしに触れたのは誰か、すなわち私にすがりついて、私をつかまえているのは、誰かと、イエスさまは探しておられるのです。

 

その時に人々の反応は、「皆、自分ではないと答えた」とありますが、触ったか、触っていないかと言うことに対して、私は触っていないということを答えているのかというと、違うのです。そういう意味の言葉ではなくて、イエスさまを否定し、イエスさまを拒んでいるのです。つまり人々の答えは、私たちを探しているイエスさまを拒み、イエスさまに捜してもらわなくてもいい!と拒んでいるんです。そういう拒否反応をしながら、「自分ではない」と答えた時の人々の姿はどうだったでしょうか?想像します。顔にきっと出ていたのではないかとも思います。

 

でもそもそも人々は、イエスさまを待ち望み、喜んで迎えたのです。それでイエスさまを取られまいとして、ヤイロのところに行こうとしたイエスさまを取り押さえようとしたのです。ところが、自分ではないと答え、イエスさまを拒むのです。最初の行動と今とが矛盾します。一体人々は、イエスさまをどうしようとしているのでしょうか?人々は何をしようとしているのでしょうか?

 

まず言えることは、出血の止まらなかった彼女が、イエスさまへのすがりつくほどの信頼、ここしかないという思いで、イエスさまに触ったことに対して、自分たちは、そこまでイエスさまを信頼していませんという姿です。それは、イエスさまを自分たちの思う通りに動いてくれないということへの、イエスさまへの拒否反応です。逆に言えば、自分たちの願った通りに動いてもらわなきゃ困る、という思いの現れではないでしょうか?だからこそ、イエスさまは、わたしに触れたのは誰か?彼女だと分かっているのに、誰か?と尋ねたのは、あなたたちは何にすがり、何を信頼しようとしているのですか?自分の言う通りに動いてくれる私を求めているのですか?そして思い通りに動いてくれない時には、拒むのですか?と、尋ね乍ら、それでもイエスさまを信頼していいんだということへと、導こうとされているのです。

 

イエスさまへの信頼、それは何でもお話できるということです。イエスさまは神さまだから、何でも話していいし、何でも聞いて下さるし、何でもわかって下さっているのです。それをそうだ、と受け取っていくことが、イエスさまへの信頼です。

 

だから彼女は、隠しきれないと思いました。それで何もかもをイエスさまにお話しすることができました。それを彼女は、イエスさまとの間だけではなくて、みんなの前でも話すことができたのは、イエスさまはどんなことでも聞いて下さる!どんなことでもまずは受け入れて下さるということ、そして、その出来事と出会いを、みんなに話すことも受け入れて下さるお方だということに、気づかされたからです。

 

それはヤイロの家からイエスさまのところに来た人もそうです。彼は正直に、言いました。「お嬢さまは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」この言葉も、正直な言葉です。けれども、ヤイロの家の人は、そう言っていますが、それはヤイロの言葉ではないのです。なぜかというと、ヤイロは、娘が死にかけているという時に、イエスさまのところに来ましたが、彼は、娘を癒して下さいとか、娘を元通りにしてくださいということは、何一つ言っていません。ただ自分の家に来てください、イエスさま、私の家に来てくださいと、それだけを願っているのです。だからこそイエスさまは、ヤイロの家に向かったし、娘は亡くなりましたとか、この上、先生を煩わすことはありませんということを言われても、それでも、ヤイロの家に行くことを止めないのです。なぜならば、イエスさまのこの言葉、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」この約束の言葉を、与えながら、イエスさまは持ち続けておられるからです。

 

「恐れることはない。ただ信じなさい」そのことを会堂長の家の人にも、人々にも、イエスさまを、どんなに信頼できなかった中でであっても、その言葉を語り、聞かせてくださっているのです。そしてその家に着いた時に、娘のために泣き悲しんでいたという出来事があっても、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」この言葉が、イエスさまを拒むその人々の中を、通り過ぎながらも、変わることなく、貫かれ、ヤイロの娘の上に、確かに与えられていくのです。

 

そしてそのヤイロと共にあったご両親の上に、そして共にヤイロの家に連れて行ったペテロ、ヨハネ、ヤコブにも、恐れなくてもいいのだ、ただ信じて行けばいいんだ、そうすればこの娘は、救われるんだ、ということを、イエスさまは見せて下さったのです。しかし、イエスさまは、両親、弟子の3人以外の人々には見せませんでした。それどころか、この出来事をだれにも話さないようにと命じられたのでした。なぜでしょうか?ヤイロの家の人も、人々も、ヤイロの娘のことを考えなかったわけではありません。ヤイロの家の人も、何とかして癒されることを求めて、ヤイロがイエスさまのところに出かけて行くのを、見送っています。人々も、イエスさまを取り押さえようとしましたが、ヤイロの娘が亡くなってしまったことを、泣き悲しんでいるのです。人々は、その人々なりに、ヤイロとその家族に寄り添い、共に悲しんでいるのです。しかし1つだけなかったものがありました。それは、イエスさまを信じること、イエスさまの約束の言葉をその通り受け取ろうとすること、がなかったのです。

 

安積得也さんの詩にこんな詩があります。

はきだめにエンド豆咲き

泥池から 蓮の花が育つ

人皆に美しき種あり

明日何が咲くか

 

掃きだめだけを見ていたら、はきだめのままです。泥池だけを見ていたら、泥池のままです。汚い~で終わってしまうかもしれません。エンド豆が咲かないと信じていたら、豆のままです。人皆に美しき種がない、と信じていたら、美しき種は見えてきません。何も咲かないと信じていたら、明日何が咲くかということを期待することも、信じることができなくなってしまうのではないでしょうか?畑に作物を植えることもそうですよね。植えたものが大きくなり、やがて花を咲かせ、実が実るようになるということを信じて、信じようとしているからこそ、植えますよね。何にもならない、大きく育たないということを信じていたら、何も植えようとはしません。神さまの私たちへの信頼も、そうです。今目の前にあることだけを見て、それで終わりではないのです。掃きだめからエンド豆が咲くこと、泥池から蓮の花が育つこと、を信じて、期待してくださるのです。人にもみんな美しい種があること、明日何が咲くかという、これからがあることを信じて、期待しておられるのです。

 

「恐れることはない。ただ信じなさい」これからを信じることができるように、これからに期待できるように、イエスさまは、信じようとしない、信じられないところを通らされながらも、恐れや不安があっても、だからこそ恐れることはない、ただ信じなさいという約束が、貫かれ、そして、これで終わりではなく、これからが、与えられていきます。

説教要旨(6月18日)