2023年4月9日 イースター礼拝 説教要旨
途方に暮れても(ルカ24:1~12)
松田聖一牧師
入学式のシーズンを迎えています。近くの上農高校、信州大学も含めて、入学式が続いています。そういう入学式には、この頃家族も一緒に参加されることが多くなってきました。コロナ前ですと、大学の入学式には、おじいちゃん、おばあちゃんも含めて、親子3世代にわたって参加されるところもありましたから、以前の入学式とは様変わりです。それはきっと入学の喜び、合格の喜びを一緒に味わいたい、あるいはこれから学ぶ学校の雰囲気を、ご家族も感じたいということがあったのでしょうか?しかし、その一方で、入学したくても、そのために試験勉強を一生懸命に精一杯して、志望校合格に向けて努力したけれども、残念ながら希望通りにはいかなかったことが、その入学式の背後にはあります。
それは入学ということだけではありませんね。自分がこうしたい、やりたいと決めて、それに向かっていく時も、あるいはやらなければ・・・という使命感で、それに向かって精一杯やっていこうとする時にも、思い通りの結果にならないことがあります。そういう結果となったとしても、それが出るまでは、自分なりに考え得る精一杯のことをしています。努力しています。けれども、どんなに努力しても、自分なりに考えうる精一杯のことをしたとしても、自分の力ではどうすることもできない、どうにもできない、ただ立ち尽くすような、見守るしかないこともあるのではないでしょうか?
それはイエスさまの納められた墓に、出かけて行った女性たちもそうです。彼女たちは、イエスさまの亡骸に香油を塗るためにイエスさまの墓に出かけて行くのですが、そのための努力は、並大抵のことではありません。というのは、彼女たちは、イエスさまが十字架につけられ、亡くなられたイエスさまのところに行って、香料を、塗って、遺体を整えようとしますが、その香料を「準備しておいた」ということには、簡単なことではなくて、大変な努力をしているからです。
具体的には彼女たちが、イエスさまのご遺体に香料を塗って、遺体を整えるために、週の初めの日の明け方近くに墓に行ったということまでに、香料を準備しておかなければいけないからです。では、週の初めの日の明け方近く、というのはどういう日であるかというと、当時土曜日が安息日でした。正確には金曜日の日没と共に安息日が始まり、土曜日の日没と共に安息日が終わります。そして週の初めの日の明け方近く、ということは、その土曜日の日没の後、その夜が終わるころの時間でありますし、暗闇が一番深まる時とも言えます。そういう意味で、「週の初めの日の明け方早く」その日の、日の出前の時間に、香料を塗るために、彼女たちはイエスさまのお墓に出かけるのです。
ではこの香料は、いつ準備したのかというと、土曜日は安息日ですから準備ませんし、土曜日が終わって日曜日の明け方になってから準備したのでもなくて、イエスさまが十字架の上でなくなられて、墓に葬られたその同じ金曜日の日没までに、香料を準備していくのです。日が沈んでしまうと、土曜日、安息日となりますから、香料を買いに行くことができません。では、イエスさまが十字架の上で亡くなられた時間から、日没までどれくらいの時間があったのかというと、まずはイエスさまがなくなられた時刻は、金曜日の午後3時です。そしてイエスさまが亡くなられ、墓に葬られる場所、どこに葬られたかということといった、その「有様とを」彼女たちは、見届けて行って、家に帰って、香料と香油を準備したということですから、イエスさまが十字架の上で亡くなられたという、出来事を目の当たりにしながら、イエスさまが墓に葬られる、その時、その有様も見届けながら、時間に追われるようにして準備しているのです。そうなると、イエスさまを亡くした悲しみに暮れる間もありません。次のこと、その次のことに動き出していきます。でも本当は、イエスさまを十字架の上でなくした悲しみを、しっかりと出せたらいいし、そういう時間は必要です。しかしそういう時間が、取る余裕がないのです。現実の目の前のこと、すなわちご遺体に香料を塗るために、日没までの短い、非常に限られた時間の中で、動き出していく彼女たちです。別の見方をすれば、そうでもしないと、彼女たち自身が、イエスさまを失ったという悲しみに押しつぶされそうになっているからなのかもしれません。十字架の上で、見捨てられ、虐げられ、そして亡くなっていった、その姿を目の当たりにした彼女たちですから、そういうことを考えようとしなくてもいいように、次から次へと動いているのかもしれません。いずれにしても、そういうことをしてきたからこそ、週の初めの日の明け方近く、準備しておいた香料を持ってイエスさまのお墓に行く、ということにつながるのです。
さらには、イエスさまのお墓に行くとしても、イエスさまのところに辿り着けるかどうかすら、分からないのです。墓には大きな墓石があって、墓穴をふさいでいますから、彼女たちの力ではどうすることもできないお墓になっているのです。そうであっても、彼女たちは、それでも行こう!と結果がどうなるか分からなくても、行ってみよう、やってみようということで、しかし、ではなくて、「そして」墓に行ったということなのです。
どうしてここまでしようとするのでしょうか?それは彼女たちの、イエスさまにご遺体に触れて香料を塗りたい!イエスさまは亡くなってしまわれたけれども、一目でもそのご遺体にお目にかかりたい!たといどんな死に方であったとしても、彼女たちにとっては、大切なイエスさまです。彼女たちそれぞれのどん底の時、支えて下さったお方です。本当に辛かった時に、お守りくださり、救ってくださったイエスさまです。だから、どんな死に方で亡くなられたとしても、イエスさまにお目にかかって、せめて香料を塗って差し上げたいという願いからのことではないでしょうか?
その彼女たちの姿は、私たちにとっても、自分にとって、大切な方、かけがえのない方がなくなられた時の姿と重なりますね。たとい、どんな亡くなり方であったとしても、そのご遺体と対面したいと思うし、遺体であっても、その遺体に何かしたいと思うのは、人として自然なことではないでしょうか?
そんな願いと思いの中で、大変な努力の末、墓に行って与えられた1つのことが、イエスさまが納められた墓の入り口の石が転がされていたのです。誰が転がしたのかは分かりません。でも転がされたことで、墓の中に入ることができるようになったことは、ともかく彼女たちの、やろう!香油をイエスさまの亡骸に塗らせていただこう!としたその思いが、実現に向けて大きな前進となった出来事なのです。
だから、その瞬間には、良かったという思いになったのではないでしょうか?ところが、その良かった、と思った出来事から、奈落の底に突き落とされるような出来事が「主イエスの遺体が見当たらなかった」イエスさまの遺体がない、イエスさまの亡骸を、見ることが出来ない、せっかくここまで来たのに、イエスさまがいない、と言う出来事によって、途方に暮れて、方法がない、なすすべがない、どうしていいか分からないという目的を失っている彼女たちになっていくのです。
それは、彼女たち自身が、ないということに向かって、生きていたからです。墓に出かけて行く時も、墓でイエスさまの遺体が「ない」ということに、直面することも、彼女たちの向かう方向は、イエスさまが、もう生きておられ「ない」こと、イエスさまの遺体が「ない」という、ない、ない、という方向です。その、ないということを、自分たちで確かめられない状態になっているので、ないということに向かって生きることを、目的としていた彼女たちから、その目的の根拠がなくなってしまうのです。そのために彼女たち自身は、どうしていいか分からないでいるのです。
そんなない、ない、ということに向かって生きていた彼女たちに、二人の人を通して言われた言葉が、「なぜ、生きておられる方を死者の中から捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という知らせなのです。それはただ単に、イエスさまが、このお墓にはいないということ、復活され、生きておられるということを知らせるためだけではなくて、彼女たちが、ない、ない、ということに向かって生きていた、その彼女たちに、ないという方向に向かうことから、あるということに向かう生き方へと導こうとしておられる知らせなのです。
だからこそ、イエスさまはいないのではなくて、いる、あるということを知らせるために、「ここにはおられない」彼女たち自身がない、ない、というところに自分の心を向けていた、同じ、ない、ということを、全てにおいてない、ではなくて、「ここには」おられない、ここには、イエスさまはいない、でも、どこにもいなくなったのではなくて、復活なさったのだ、生きておられるのだということを知らせるのです。つまり、彼女たちが、ない、ない、以外のことが考えられない状態になっていたことにも、寄り添いながら、ある意味同じことば、「ない」を使いながらも、そこから全部が、ない、ではなくて、ここにはおられない、復活なさったのだということへと導かれるのです。
そしてそのことをもう一度与えるために、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と語られるのですが、本当に語られた通りに、イエスさまは、十字架につけられました。イエスさまがおっしゃっていた通りのことが彼女たちの目の前で起こりました。そして、その言われた通りのことは、十字架の死で終わりではなく、イエスさまは、いない、遺体がない、もう生きておられない、ではなくて、その後のこと、「三日目に復活することになっている、と言われたではないか」十字架の死が、死で終わりではなくて、神さまの命に繋がっていること、死で終わりではなくて、生きておられること、その生きておられるお方が、私たちの生き方を、ない、ない、に向かうのではなくて、ある、ということ、希望がない、ではなくて、希望が、あるという方向へと、イエスさまの復活、主が生きておられるという出来事によって、彼女たちにも、私たちにも、与えられていくのです。
ただそのことがすぐに分かるようになるかというと、いろんな時と場合があります。彼女たちは「言われたではないか」と言われた時に、思い出しました。
でも、彼女たちが墓から帰って一部始終を知らせた11人の弟子たちと、他の人達は皆、それが何のことかは分からなかったのです。「この話がたわ言のように思われた」とある通り、彼女たちの言っている、イエスさまが生きておられるということに対して、無駄話、くだらない、ばかげた話だと一旦は思っているのです。つまり、素直にそうだそうだと、受け入れた話ばかりじゃなくて、最初はばかげた話、たわ言として受け取っていくのです。そういう意味では、分かるにも時があるということですし、分からない時も、その時だと言えるでしょう。しかし、そうであっても、途方に暮れている中で、主がいない、ない、ではなくて、ない、からある、へと変えられていくのです。
ある娘さんが脳腫瘍になりました。大学病院で手術を受けて助かる見込みは50%と言われたのでしたが、脳外科の先生が手術の前に、小学校3年生のこの子に、こう言いました。「手術は怖くないよ。すぐ終わるからね」その時、彼女はその先生を見て、「先生こわくないよ」と答えていました。先生もびっくりして「どうして?」と尋ねると、「だって、わたしの心の中に、イエスさまがいらっしゃるから」その時、宗教のことに無関心だった先生は、感心しました。やがて手術が終わりました。最初の内は、回復か順調と言われていたのですが、いよいよ厳しい状態になった時、彼女の周りには先生とご両親が一緒でした。その時、彼女は、目をパッチリをあけて、ご両親にそれぞれこう言いました。「お母さん、イエスさまが、おいで、おいでと言うから先に行くね」その意味が分からないでいるお母さんは、娘さんの名前を呼んで絶叫しました。さらに首をお父さんの方に向けてこう言いました。「パパ、パパもイエスさまを信じて、私のところに来てね」そう言って安らかに息を引き取ったのでしたが、ご両親はそれから、「神なんかいない。どうして、罪のない、この一人娘を取るんだ!!」と苦しみ悩み続けました。その苦しみと悩みはもちろん消えてなくなるものではありませんでしたが、やがてこんなことをおっしゃっていました。「人は遅かれ早かれ、みんな死ぬのだ。でも、このようにして死を恐れないで、天に凱旋できる世界を、神は、この娘を通して教えてくれた」
その言葉は「お母さん、イエスさまが、おいで、おいでと言うから先に行くね」と「パパ、パパもイエスさまを信じて、私のところに来てね」でした。それを思い出すことができるようになられたことで、ご両親の、その言葉に繋がっています。
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
私たちにとって、途方に暮れることがあります。もはや何もない、希望もない、という、ないを目的にしてしまうこともあります。でも、そのない、ということを目的に、その生き方があるのではありません。遺体という、死を目的に人生があるのでもありません。生きておられるイエスさまと共に、生きること、そこに新しい生き方、命があることを、イエスさまは、私たちに与え、与えてくださるイエスさまと一緒に歩める道を、途方に暮れたその所から、一緒に歩みながら、スタートさせてくださるんです。
そのことを、そうだそうだ、と思い出させてくださる日が、イースター、復活祭です。