2023年3月26日礼拝 説教要旨

傷つくということ(ルカ20:9~19)

松田聖一牧師

 

先日阿智村にあります満蒙開拓平和記念館をお訪ねしました。その目的は2つありました。1つは祖父の家族が戦時中旧満州にて過ごしていたこと、そして戦後命からがら帰って来た、その出来事がどのようなものであったかということと、もう1つはその記念館に加藤登紀子さんが来られるということを伺い、同じく旧満州で生まれ過ごされ、戦後無事に帰国されたことと言う接点と、その加藤さんに会って、ご挨拶が出来て、機会が与えられたらこの教会でコンサートをしていただけないかということをお伝えしたい、という思いからでした。とにかくどうなるかは分からなくても行ってみようと思い立ちまして、祈っていただきながら現地に着いたところ、丁度記念館に加藤登紀子さんもおられて、教会に来ていただきたいということなどを書いたお手紙を、マネージャーの方に預かっていただきました。必ずお渡ししますと何度もおっしゃってくださり、加藤さんにもご挨拶することができ、ダメもとでも行ってみようとしたことに、神さまは答えてくださって、道を開いて下さったことを感謝しながら、帰途に着きましたが、その面会の会場となった平和記念館には、満州からの引き揚げ港となった葫蘆島に、人々が大移動し、その港でアメリカの軍用艦に乗り込むために待っているたくさんの人々の絵がありました。ワンシーチーさんという方の作品ですが、その絵には、沢山の方々の顔が描かれていました。その絵の説明書きにこうありました。「葫蘆島の港で引揚船に向かい列をなす数百名の群衆。この中に、あなたの父や母、そしてあなた自身がいないだろうか」という言葉を目にしたとき、私も探してみました。ここに無事に帰国できなかった祖母はいないだろうか?おばあちゃんはどこかにいないだろうか?そう思いながら探しましたが、それらしき顔はありませんでした。でもきっとここで帰国を待ちわびていたのではないか?などと想像していました。そしてその記念館の館長さんの記した、記念館パンフレットにこんな言葉がありました。

 

当時、国策の下に実施された満蒙開拓。開拓団員として渡満した人々も「20町歩(ちょうほ)の地主になれる」、「満蒙は日本の生命線」の謳い文句の下、夢を抱いて渡った新天地「満州」でした。しかし、1945年8月9日、突然のソ連侵攻で戦場と化し、開拓団の人々は広野(こうや)を逃げ惑い、難民収容所でも飢え、寒さ、流行病などで多くの犠牲者を出しました。また帰還が叶わず、残留孤児・婦人となった人たちも少なくありません。しかし、満蒙開拓においてはこれら日本人側の「被害」だけでなく、現地の人々に対する「加害」の面もあったということも決して忘れてはならないことです。

 

そんな被害の面と、加害の面、その両方があったということと、その両方を忘れてはならないということは、歴史の1つの出来事に限らず、他にもいろいろ当てはまります。それは傷つくということにおいても同じことが言えるでしょう。というのは、傷つくということには、傷つけられるということと、傷つけるという両方があると言えるからです。けれども、その傷つくということを、自分自身に当てはめる時、誰かから、あるいは何かの出来事から、「傷つけられた」という立場に立つことが多いのではないでしょうか?自分が、傷つけたという加害者の立場にはなかなか立てないこともあるのではないでしょうか?

 

しかし、イエスさまがおっしゃっておられるこの譬えには、傷つけられる人と、傷つける人、両方がいるのです。そして傷つけるということが、収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために送った僕に対して、袋叩きにしたり、何も持たせないで追い返したり、侮辱して何も持たせないで追い返したり、傷を負わせて放り出したりした、農夫たちの姿に現れているのです。

 

この農夫たちのしたことは、とんでもないことです。農夫たちはある人からぶどう園を貸していただきました。そこで働くこと、そして生きることができるように、生活と命を支えていただいたのです。だから取れた収穫を納めることは、当然のことなのに、収穫を受け取りに来た、僕を次から次へと、袋叩きにし、追い返していくことは、とんでもなく傷つけています。それはあってはならないことですし、やってはいけないことです。こんなひどいことをしたらいけない!何ということをするのか!と怒りを覚えることでもあります。

 

そしてこの傷つけていく、農夫たちの傷つけ方を見る時、最初の傷つけ方は「この僕を袋叩きにして、何も持たせないで追い返した」ですが、次のやり方は「袋叩きにして、侮辱して、何も持たせないで追い返した」となっていますから、最初は、袋叩きにする、棒で殴るという行為と追い返したということに、次は、袋叩きに、侮辱する、軽蔑し、辱めるということが加わって、追い返したとなります。これは、傷つける行為が、だんだんエスカレートしています。これは、加害者が傷つけるという行動の1つの特徴です。

 

富山大学から1つの論文が出ています。そのタイトルは、なぜいじめはエスカレートするのか?いじめ加害者の利益に着目してというものです。その論文の概要が次のようにまとめられています。

 

本研究の目的は,中学生を対象とした調査をもとに,いじめ加害者がいじめによって得られる利益に着目し,いじめをエスカレートさせる要因について検討することにある。分析を行った結果,①いじめを続けていくなかでの加害者の心情の変化には,「いじめへの後悔」(いじめをすることに罪悪感や情けなさ,不安を抱くようになる)と「利益の発生」(いじめが楽しくなったり,被害者を服従させることで気分がよくなったり,加害者同士で連帯感を感じるようになる)という2つの側面があること,②加害者が女性の場合よりも男性の場合において,いじめがエスカレートしやすいこと,③「異質」な者を排除することを“口実”としたいじめや,被害者を制裁することを“口実”としたいじめ,被害者の属性とはおよそ無関係な身勝手な理由によって行われる遊びや快楽を目的としたいじめは,エスカレートしやすいこと,④加害者がいじめをすることによって得られる利益を実感するようになった場合に,いじめはエスカレートしやすいこと,などが明らかとなった。これらの結果は,いじめのエスカレート化の問題を考えるにあたり,いじめの“口実”や加害者の私的利害に着目することの重要性を示唆している。

 

つまり、いじめるという行為も含めての、その行動は、そのまま放っておいたら、自然におさまるものではなくて、エスカレートしていくものなのです。それが集団対1人ということになれば、なおさらです。しかも、それが周りに分からない所でなされると、余計に、ひどくなっていくのです。

 

それは見方を変えると、加害者も、人を傷つければ傷つけるほど、それがどんどんエスカレートしていくほどに、自分もますます傷つけていくのではないでしょうか?自分がされたらいやなこと、自分が言われたらいやなことを言っていく時、それは全部、自分に帰ってきます。自分も傷つけているのです。例えば、戦争に駆り出された兵士たちが、戦地で敵を傷つけていくことで、受けてしまう、精神的なダメージとも繋がります。戦争に行かれた方が、無事に帰って来たけれど、もう別人のようになっていた~というお話を伺ったことがありました。無事に帰って来ても、自分が人に対してしたこと、たとい敵であっても、それが命令でしなければならないことであったとしても、その人には家族がいただろう。子どもがいたかもしれない。その家族から、その人を奪ってしまったということを、自分がしてしまったということで、自分を責め続け、自分を傷つけていくのです。つまり、加害者としての立場に立てば、一方的に傷つけ続けていくのではなくて、傷つければ傷つけるほど、自分が、自分によって傷つけられていくのです。そういう意味で、加害者であることは、同時に被害者にもなっていくのです。

 

それが農夫たちの僕に対してした行為の、根っこの部分にあるし、それが出ているのです。ところが、こういうエスカレートしている農夫たちの、この行為そのものを、ぶどう園の主人は、やめさせようとか、その行為を繰り返している農夫たちをぶどう園から追い出そうとはしないのです。

 

むしろ、「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と、愛する息子を、この主人は農夫たちの所に送ろうとするのです。でもこんなこと無茶です。傷つけていくことが、どんどんエスカレートしている中で、愛する息子を送ってしまったら、息子はどんな目に合うか?火を見るよりも明らかです。それでも主人は送ろうとし、実際に送り出すのです。でも案の定と言いますか、農夫たちはますます欲望にかられ、そのエスカレートしている加害者としての行為に快楽すら覚えて「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と互いに自分の考えを論じ合って、よく考えて出した結論が、「これは跡取りだ」相続財産は我々のものになるという、財産目当てに、殺してしまおうなんです。この時、その息子の命を奪うことよりも、その後に受け取れる相続財産に目がいってしまい、相続財産を手に入れた後のことを思い描いていくのです。それがまた彼らの快楽に繋がっていくのです。

 

それなのに、主人は愛する息子をどうして送ろうとしたのでしょうか?それはこの送り出す主人は、神さまのことを表しているからです。そして神さまが愛する息子と言うその息子は、ご自身の愛する独り子のイエスさまです。この送られたイエスさまは、農夫たちの、傷つけていくこと、そして命までも奪おうとすることを、イエスさまは、受け取るために、それをイエスさまが引き受けるために、そこに遣わされ、出かけて行くのです。その結果、農夫たちがこれ以上、傷つけることがなくなるように、イエスさまはストップをかけるために、傷つけていく彼らのところに来てくださるのです。

 

でもこんなことを神さまは、すんなりと受け止めておられるのかというと、決してそうではありません。それがこの言葉に表されています。「どうしようか」これは何を私はしようか!何を私は実行するのか!という、神さまがしようとされることが、いろいろな選択肢がある中で、1つを選ぶということはもうなくて、神さまが必ず実行するという方法は、たった一つしかないという意味なのです。そのたった一つのことを、神さまは、私は何をしようかと、どうしようかと悩みながらも、それでもそういう農夫たちのために、たった一つのこと、私はイエスさまを送るということを、決断し、それを実行していかれるのです。

 

そうはいっても、こんなことをして彼らを止めさせることはできませんでした。でもイエスさまを送った後、農夫たちがそれでもなお傷つけていくということをしたとは、書いていないのです。なぜでしょうか?なぜもう傷つける行為が記されていないのでしょうか?それは、イエスさまが、彼らに傷つけることを止めさせるために、命の盾となって下さったからです。神さまであるイエスさまが、彼らの所に来て下さったので、彼らの、傷つけるという行為は、それ以上にはなっていかないのです。

 

でもそれは彼ら自身が傷つけたことを、何でもいいと言っているのではないのです。彼らのしたことに対する報いは、「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」とおっしゃられる通りです。彼らのしたことを認めて、いいよと言っているわけではないのです。それでもなおイエスさまが、彼らのしたことを全部受け止めて、命を彼らのために、差し出していくというのは、そこに神さまの、大きな大きな赦しがあるからです。

 

その赦しを、捨てた石として、イエスさまはおっしゃっているのです。石というのは、赦しを意味し、赦しを指し示すものです。赦しを与えるために、その赦しであるイエスさまを、神さまは十字架の上で捨てました。農夫たちだけではなくて、弟子たちも、群集もイエスさまを捨てました。でもその捨てられた赦しが、隅の親石となって、赦しを捨て、赦しを捨てようとした、その人の土台となっていくのです。そしてその赦しの石の上に「落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」とは、赦しであるイエスさまの上に、農夫たちも含めて、だれでも、打ち砕かれるということ、粉々に木っ端みじんに打ち砕かれてしまうということと、その赦しの石が、誰かの上に落ちること、すなわち赦しのイエスさまが、与えられるときにも、誰でも押しつぶされるのです。でも粉々に打ち砕かれても、木っ端みじんにされても、押しつぶされても、石大工でもあったイエスさまは、その赦しの手の中で、粉々にされた石から、新しいものを生み出し、作り出して下さるのです。

 

山形県のある保育園で、陶芸教室が開かれました。陶芸作家の方を迎えて、子どもたちが土をこねて粘土を作り、そしてその粘土をこねて、その粘土を叩いたり、お皿、コップなどを作る時には、粘土を蛇のように細くして、そして自分が作りたい形に合わせて、とぐろをまくように順々に積み上げていきます。その作業の中で、土のにおいをかいだり、時には、うまくいかなかった作品も、粉々にすることなど、いろいろ指導頂きながら、作り上げていく様子が次のように紹介されていました。

 

先日、保育園恒例の年長児陶芸教室がありました。今年も陶芸作家として活躍している方の工房で土から陶器になる工程を教えてもらいました。粘土のにおいを嗅いだり感触を楽しんだりと五感を使い、思い思いの作品作りで小さな”陶芸作家”が誕生しました。工房には素敵な作品がたくさん♫これからお話しを聞くよ!楽しみ~コップを作る時はこうやって叩いて・・・ヘビさんを作って丸い土台に付けていくよ!土のにおいを嗅いでみよう!さあ、どんなにおいがするかな?ん?あまりにおいはしないな・・・のせたごちそうがこぼれないために縁があるのね~大きい皿にお菓子をのせて・・・ヒヒヒ大きいコップで何飲もう♫コップを作るよ!へびさん難しいな・・・早くしないと粘土が硬くなっちゃう~失敗した作品も粉々にして水につけると、また粘土になって新しい作品ができるんだって!SDGs~粉々にするのをお手伝いしたよ~大変な作業なんだって!

 

「失敗した作品も粉々にして水につけると、また粘土になって新しい作品ができるんだって!粉々にするのをお手つだいしたよ~大変な作業なんだって!」

 

イエスさまの赦しによって、こなごなにされること、それもまたイエスさまの大変な作業です。命をかけた、命をささげ、命が注がれた作業であると言ってもいいでしょう。同時に、イエスさまは、赦すために、イエスさまも十字架の上で、木っ端みじんに砕かれ、粉々にされたということではないでしょうか?けれども、そうして粉々にされたものも、水につけること、水が与えられ、水が加えられることによって、イエスさまの命の水によって、また新しい作品が新しくつくりあげられていくのです。赦しの上に、こなごなに砕かれても、そして赦しによって、こなごなに砕かれても、また赦されて、与えられて、新しくされていくのです。

 

ゆるすという言葉には、英語で、FORGIVE という言葉に当てはめることができます。この言葉は、与える、そのために与えるという意味でもあります。赦しは、神さまからイエスさまを与えて下さったから。赦しのイエスさまが私たちに与えられたから、それを受け取ること、ただ受け取ることで与えられるものです。受け取ることができるので、イエスさまをそのまま受け取ったらいいです。

説教要旨(3月26日)