2023年3月12日礼拝 説教要旨
自分とは(ルカ9:18~27)
松田聖一牧師
「共に」という言葉があります。漢字の共、とひらがなの、に、で、共にですが、その漢字を使った共に、と、ひらがなだけの「ともに」との使い分けについて、次のように説明されています。
「一緒」「同じ」という意味であれば、漢字の「共に」を使います。ほら、「風と共に去りぬ」という文学作品もあるでしょう?「風と一緒に」だから「風と共に」と書くわけです。「同時に」という意味であれば、ひらがなの「ともに」を使います。
ということは、(18)において「イエスさまがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」には、共にという漢字が使われていますから、イエスさまの弟子たちは、イエスさまと一緒にいた、イエスさまと同時にいた、ということになります。ところが、「弟子たちは共にいた」という意味を調べてみると、今、イエスさまと一緒にいた、今、イエスさまと同時にいたということではなくて、イエスさまと一緒にいたということが、まだ完了していないという意味の言葉が使われているのです。
つまり、ひとりで祈っておられたイエスさまと弟子たちは、確かに一緒にいましたが、イエスさまと一緒ということが、まだ途上なのです。共にいるということが、完成していない、完了していないのです。
どういうことでしょうか?一緒にいたのに、一緒にいたということが、まだ途中、途上だということは。まず言えることは、この時イエスさまはひとりで祈っておられました。けれども、弟子たちは、イエスさまと一緒にはいたけれども、祈っておられたイエスさまと一緒に、祈っていたということではないのです。だから「ひとりで」祈っておられたということが言えるのでしょう。それでも弟子たちは、イエスさまと、一緒にいたということが、途上であっても、イエスさまと一緒にいたのです。それは本当の意味で、一緒になるまでには、これからがあるということであり、そのこれから、の中で、イエスさまが、まだまだこれから、いろいろなことを弟子たちに、教え、示し、明らかにされるということではないでしょうか?そしてその度毎に、弟子たちは、イエスさまが、どんなお方であるかということを、発見していくのではないでしょうか?
このことは人と人との関係でもそうです。あるご夫婦が、お互いにおっしゃっていました。「毎日が発見です!こんなところがあったのか~と毎日新鮮です~」と。ご夫婦ですから、毎日顔を合わします。それは、一緒であると同時に、一緒でありながら、それでなお新しい出会いと発見があるということに気づかされたのでしょう。それはご夫婦だけではありません。私たちもお互いにそうですね。同じ方と一緒に時を過ごす中で、それまで知らなかった一面を知ることがあります。例えば、普段は怖そうにしていても、時には優しいところもあるんだ~とか、普段はおとなしそうに見えても、実は力強いんだ~と言ったことも含めて、時にはびっくりするようなこともあるでしょう。それは自分に対しても、自分自身がこれまで気づかなかったことに気づかされることも、同じことですね。
信仰告白、堅信式をしていただいたのは、中学2年生の時でした。1983年昭和58年、12月25日クリスマス礼拝の時です。緊張しながら、一緒に洗礼を受けられる方々と一緒でした。その時の緊張は半端じゃありませんでした。「使徒信条を告白してくださいね~その時には使徒信条を暗記しておいてね~」と言われて、必死で何度も何度も繰り返し「我は天地の造り主~」学校の行き帰りや、いろいろな時に練習をしたこと、そして本番緊張しながら、使徒信条を告白しようとしたら、緊張のあまりに頭が真っ白になってしまったこと、それでも助け舟を出して頂いて、何とか乗り切れたことでした。ところが、その時一緒に洗礼を受けられた方も、暗記して使徒信条を告白されるのかと、隣をふっと見たら、ポケットから使徒信条を取り出して読んでおられました。えっと思いましたが、その理由は分かりません。中学生だから覚えられると思われたのか、覚えてほしいと思われたのか?それは天国でその先生から聞いてみたいと思いますが、そういう洗礼式の後、クリスマス祝会でひと言挨拶と言われた時にも、マイクを持つ手が震えて挨拶どころではありませんでした。本当にハラハラドキドキしたことしか覚えていません。それからもっと緊張したことは、その後のことですが、礼拝の中で、献金のお祈りをすることになったことでした。これもまた頭が真っ白になって何を言ったのか覚えていないほどでした。そのことをいろいろなところでお話すると、周りの方からは、本当?そんなことはないでしょう?と言われることが多くあります。でもかつては、そういう自分自身でした。でも神さまは、いろいろな機会を通して、マイクを持つ手が震えないようにさせてくださったり、人前で話すというチャンスを与えて下さったことで、今があるように思います。そういう意味でも、自分自身も変わっていきますね。自分自身でもわからなかった自分に出会い、出来ないと思っていたことができるようになっていたことに気づけることなど、そういう発見が山のようにあるということは、自分を生きている自分自身も、完成ではなくて、いつも途上だということが言えるのではないでしょうか?
弟子たちもそうです。だから周りの群衆が、イエスさまについて、言っていた「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」ということを答えていく中で、「あなたがたはわたしを何者だというのか」に、「神からのメシアです」とペテロを筆頭に答えていくのですが、神からのメシア、救い主です、という告白を、ずっとし続けることができたのか?イエスさまが、私を救ってくださる救い主であることを、信じ続けられたのかというと、完成ではなく、途上であるということが、イエスさまの言われた、この後、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、十字架の上で殺され、三日目に復活することになっていることが、その通りになったときにも現れてきます。それは、神からのメシアですと言った時とは、全く違う態度、手のひらを返したようなことを、ペテロはしていくのです。「あの人のことを知らない」とイエスさまを完全に否定し、イエスさまを捨てていくのです。他の弟子たちも、ヨハネ以外は、皆イエスさまから逃げて行くのです。神からのメシアですと言っていた、その同じ弟子が、イエスさまと一緒にいながらも、その告白の時とは全く違う、自分に変わっていくのです。
つまりイエスさまが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃられる意味は、自分が自分でなくなるほどに、自分を捨てなさいということではなくて、自分自身が、その時々で変わっていくということと、その変わり目には、それまでの自分自身を捨てていっているということを、示しておられるのではないでしょうか?それがペテロをして然りなのです。神からのメシアを言った、同じペテロが、イエスさまを知らないと答えていく時、神からのメシアであると言った自分を捨てていくのです。そしてイエスさまを知らないと言ったペテロ自身も、イエスさまが鶏が鳴くまでに私を3度知らないと言うだろうという、言葉を思い出した時、知らないと言ってしまった、取り返しのつかないことをしてしまった自分自身に、絶望し、激しく泣きました。それまでの、ある意味では自信満々だったペテロは捨てられていきました。
イスカリオテのユダも、それまでイエスさまの弟子の一人として、従ってきたのに、イエスさまを引き渡すために、お金で、イエスさまを捨てていきました。結果としては、自分で自分をユダは捨てていきました。そういう意味で、弟子たちも、イエスさまと一緒にいながらも、捨てるということを何度も何度も繰り返していくのです。しかし、そういうことも含めて、イエスさまは十字架の上で、全部受け取って、捨てていけないことを捨ててしまったことですらも、十字架の死と共に、葬って下さり、弟子たちが捨ててしまったイエスさまは、自分を捨てた弟子たちを、拾い上げて下さり、赦して下さるお方なのです。
そのことに気づかされ、赦してくださったイエスさまを受け取れた時、赦されないことをしたという自分自身、そのことで赦せないでいた自分を、やっと、捨てることができるようになっていくのではないでしょうか?
それは弟子たちだけではありません。イエスさまにとっても、「洗礼者ヨハネ」の生き返りと言う言葉は、乗り越えなければならなかった言葉だからです。というのは、洗礼者ヨハネは、イエスさまの母マリアの親戚、エリザベトの息子だからです。もちろんマリアとは血のつながりはありません。神さまによってマリアの胎内に身ごもったという、神さまの働きによって、イエスさまは、マリアを母として受け入れていきましたし、マリアも、イエスさまを息子として受け入れていきました。それによって、イエスさまは血のつながりはないけれども、親戚として洗礼者ヨハネが与えられたのです。
ところが、そのヨハネは、ヘロデ王によって、残酷にも殺されてしまいました。そのことを、イエスさまはどう感じ、どう受け止めていたのか?については、聖書のどこにもその言葉、思いは出ていません。でもそれはイエスさまに全くなかったということではなくて、大いにあったはずです。当然、殺した相手に対する思いも、尋常ではなかったと思います。けれども、そのことを一切におっしゃられなかったのは、イエスさまが神さまでいらっしゃるということと共に、イエスさまを通して、神さまの赦しを与えるために、来てくださったお方だからです。そのために、イエスさまも、赦されないことをした、その相手を赦すという乗り越えることができないほどの、大きな大きなハードルに向き合わなければならなかったのではないでしょうか?それでもなお、イエスさまは、到底赦せない、赦されないことをしたということでさえも、十字架の上で、全てを、十字架の死と共になかったことにしようとしているのです。だからこそ、イエスさまは、十字架に向かって歩もうとされました。神さまの赦しを与えるために、自らも、赦されないことをしたその相手、その出来事を、赦そうとして、乗り越えようとされるのです。
犯罪被害者の会というのがあります。その中で、いろいろな方の手記があります。その一つをご紹介させていただきます。
何事がおこったのか 果たして本当に自分の身に降りかかったことなのか 思考がとまってしまう あなたの死を受け止めきれずにいた なんで体にこんな傷が なんてひどいことを 胸が潰れそうな気分だった 痛かったね 苦しかったね 無念だったね 髪を撫でた時の ぞっとするぐらいの冷たさが 今も私の左手に残っている その人の髪の固さは まぎれもなくあなたの髪だった 泣いてはいけないと思っていた 冷静に対応しなければならないと思っていた
そんな数日を過ごした後 あなたと斎場にいた もう一度お別れができると思っていた しかしそんな余裕もなかった 後悔しても遅すぎた 急ぐようにあなたは天に昇っていった だから大声をあげて泣いた 真っ黒な煙が灰色になり やがて蒸気に変わるまで 煙をかき集めて抱きしめたかった それが出来なくて悲しくて仕方なかった 娘として、 人間として 最後を看取ることもできなかった その機会が奪われてしまったことが悔しくてたまらない 本当にごめんなさい ゆっくりと涙がひいたあとに やってきた警察官に待合室で事情を聞かれた 父の兄弟について、 同じことを何回も聞かれ繰り返す 私は疑われているのだと感じた やるせなさとともに怒りが湧いた 軽く小さくなった父を抱いているのに お寺の外に警察が待ち構えていた 参列者ひとりひとりの名前を確認する もうやめて 静かにして 殺されて亡くなることは恥なのか メディアに扱われることは恥なのか 息をひそめるように過ごしていた
新緑の心地よい季節に 初夏のさわやかな季節に 衣替えさえも忘れていた 父は命を奪われ、私は心が壊れた「じやあまたね」なんて 別れ際にかける言葉は 明日を信じるこその言葉で 明日って何かが起きれば 突然なくなることもある「約束する」なんて 次につながる言葉は 未来を信じるこその言葉で
未来ってガラスのように 壊れてしまうこともある 悲しみがとても重すぎてでも「気持ちはわかるよ」なんて言葉で 簡単に言われたくなかった でも孤独に押し潰されそうで 誰かにそばにいてほしかった 涙が止まらなくて でも「泣かないで」なんて言葉を 簡単に言われたくなかった でもずっと泣いているとき 誰かに一緒に泣いてほしかった 星座をかたどる星のひとつが 手が届かなくなった大切な思い出に見えて 胸は痛み、 涙が流れるけど あなたを忘れてしまいたくはなかった 夜明け前の暗闇のような今を過ごしながら 誰かにわかってほしかった 傍にいてほしかった 自分が眠りに落ちるまで そして次の朝がきたら おはようと声をかけてほしかった そしてそれを繰り返してほしかった 一人ではないとわかるまで
私たちにとって、到底赦すことのできない相手、赦されないことをしたその相手を、赦すということは、出来ないと言ってもいいでしょう。イエスさまもそこを通らされました。だからこそ、赦すということが、どんなに大きなことであるかということを、神さまとして、経験し、分かっていてくださるのです。分かっておられる上で、赦しを与えるために、十字架に向かっていかれるのです。そしてイエスさまは、その人の命の大きさ、その重さ、またその人の命と、命と共にある人生そのものが、神さまから与えられ、それぞれにどれほど精一杯、神さまに助けられ、支えられて生きて来られたかということを、そしてその神さまから与えられた命、手や足、口、声を使って、どれほど多くの恵みを与えて下さっていたかということを、私たちにもう一度思い起こさせてくださるのです。
そのために、イエスさまは、復活の後、弟子たちにもう一度出会ってくださいました。その時、弟子たちに言われた言葉があります。
それは「おはよう」と言う言葉です。おはよう!今日も一緒にいるよ!おはよう!今日も共に今日の一日を歩もうと、いつでも、どこにいても、変わらず励まし、支えて下さいます。イエスさまは、私たちと本当に、一緒です。私たちがイエスさまと一緒にいようとしなくても、いつも一緒です。ひとりではない、一緒にいるということが、分かるようになるまで、分かってからも、ずっと毎日毎日「おはよう」今日も一緒だ!おはよう、今日も一緒に歩もう!と声をかけ続けてくださっています。