2023年3月5日礼拝 説教要旨

神さまの働き(ルカ11:14~26)

松田聖一牧師

 

先日の大雪は久しぶりの大雪となりましたね。教会の周りでも40センチにもなる積雪となりました。その大雪の日、コピーの調子を見ていただくために、雪の中コピーのことで来てくださいました。玄関入るなり、「これはすごい雪だ~駐車場から車が出せないので、雪かきで大変だ~」とおっしゃりながら、コピー機械を見て下さり、大雪の中をお帰りいただきました。その間も、雪がどんどん降り積もっていきます。雪をかいてもかいても、かいた先から雪が積もり続けていて、追いつかないことでした。最初は駐車場も・・・と思っていましたが、手が回らないので、ともかく教会と牧師館とを何とか行き来できるように、行ったり来たりしながら、雪をかいていきました。最初はていねいにするのですが、その内に、手が回らなくなり、それで雪を投げ飛ばすような感じで、かいていきますが、とても追いつきません。でもそうしないと、あっという間に、雪が積もって行き来が出来なくなりますから、そうならないように、雪を投げ捨てるように、投げ飛ばすように必死になります。

 

イエスさまは悪霊を追い出されていたということも、それと似ています。というのは、追い出されているとある言葉「追い出す」には、投げるとか、放り出すとか、投げ捨てるという意味があるからです。相当な勢いで投げ出していたということですが、どうしてそこまでするのかというと、「口を利けなくする悪霊」がいて、それによって、口がきけない人がいたからです。この存在が、どんな性質で、どんな姿であったかについては分かりません。またこの悪霊によって、口がきけない、ということになってしまう人は、口がきけないというだけではなくて、耳が聞こえないということにもなってしまいますから、そうなられた方は、自分の思いを人に伝えられなくなりますし、人が言っていることが聞こえない状態になります。しゃべれないし、聞こえないということは、その人が、他の人との関わり、つながりを失うことになりますから、イエスさまは、そこから何とかして解放したいと願われたことでしょう。

 

その時に、イエスさまがなさったことは、口がきけないということを、ただ口が利けるようにされただけではなくて、口を利けなくさせた、その悪霊というものを、イエスさまが追い出そうとされるのです。つまり、イエスさまは、起こった出来事、口がきけないということだけを何とかしようとされたのではなくて、そうさせているその悪霊を追い出すこと、投げ出す、放り出し、投げ捨てるということへと向かわれるのです。その結果、この悪霊は、この人から出ていくだけではなくて、イエスさまから逃げるように、脱出するかのように出ていくのです。その結果、この人は、口がきけないということから解放され、癒されていくのです。見方を変えれば、口の利けないこの人だけから出たらそれでいいというのではなくて、ともかくここから出ていくように、イエスさまは、投げ捨てるように、追い出しておられるのです。

 

その結果、口のきけない人、それまでしゃべることができなかった人が、「ものを言い始めた」すなわち、しゃべれるようになった「ので」、群集は「驚嘆した」のです。驚嘆したというのは、群集が、驚き怪しみ、不思議に思い、びっくり仰天したということなのです。単に驚いたということだけではなくて、驚き怪しむ、不思議に思ったのです。ここに、口のきけない人が、口が利けるようになったことを、群集が共に喜んでいる言葉はありません。一緒に良かったね~と共に喜んでいるのではなくて、むしろ、口が利けるようになったことを、疑い、驚き怪しんでいるのです。つまり、そこにあるものは、この人が、話せるようになったことを、どこかで疑い、否定しようとしているだけではなくて、この人そのものを、否定しようとし、あるいは受け入れようとしない姿でもあるのではないでしょうか?

 

でもそれは、口が利けるようになった人にとっては、ものを言い始めることが出来たのに、一緒に喜んでくれる人がいない、良かったね~と共感してくれる人がいないだけではなくて、ものを言い始めることができた私を、誰も受け入れてくれない、拒絶された、という事実と直面することになります。それは、何とも言えません。寂しいと言いますか、共感してくれる人がいない、受け入れてくれる人がいないということは、せっかくしゃべれるようになっても、しゃべる相手が見つからないということにもなるのではないでしょうか?

 

しゃべれること、話すことができるということは、小さなことかもしれませんが、すごいことですよね。生まれた赤ちゃんが少しずつ大きくなってきたとき、あ~とか、う~とかひと言何かを喋れた時、ご家族を始め、周りの方々はどうでしょうか?和みますね。うれしくなります。アッしゃべった!とか、ニコッと笑ったとか、そういう反応になります。そのように、赤ちゃんが一人いるだけでも、周りは本当になごみます。周りを幸せにしますよね。それは周りも、あ~とかう~とか、ニコッと笑うこととか、そうすることのできた赤ちゃんを、受け入れているからこそ、幸せな気持ちになれるのではないでしょうか?受け入れようとしなかったら、排他的になっていたら、一緒に喜ぶということにはならないです。

 

けれどもここでは、そういう受け入れるということが、ないのです。そこにあるものは、この人に対してだけではなくて、イエスさまに対しても、受け入れたくない、一緒になりたくないという排他的なものです。その言葉がイエスさまに対して、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者がいたり、イエスさまを試そう、試みよう、悪へ誘惑しようとして、「天からのしるしを求める者」がいるのです。

 

そういうことをイエスさまは、見ぬいておられて、おっしゃられる言葉が、「内輪もめ」なんです。この内輪もめということはどういうことなのでしょうか?そして内輪もめと、受け入れようとしないということとが、どう関係するのでしょうか?

 

内輪もめというと、内輪で争うことですが、それは何と何との争いなのかというと、彼らがイエスさまに対して言っている悪霊の頭ベルゼブルと悪霊という、お互いに悪霊同士、悪霊仲間同士で、仲間撃ちをしていることを指しています。そのことを語りながら、彼ら自身の中にある排他性、排他的ということと、関係があるということとを結びつけておられるのです。

 

というのは、排他的になるということは、逆の見方をすると、そこに仲間を作っているということです。仲間というのは、もともとは一緒に物事をする間柄とか、地位・職業などが同じとか、あるいは商工業者の同業組合のことでもあります。そういう仲間になると、当然仲間でない人が出てきますし、仲間であるか、仲間でないかということで、色分けされていきます。つまり、仲間であると思ったり、言ったりしているその時点で、もうすでに、誰かを仲間ではないと、排除していることが、起こっているし、起こしているのです。

 

イエスさまがおっしゃられる内輪もめというのは、仲間内でやり合うということ以前に、そもそも内輪になること、内内の関係で凝り固まってしまうこと、仲間内だけで固まってしまうということで、もめるんだということをおっしゃっているのです。そのもめるということの具体的なこととしては、例えば、内輪というのは、内内の関係ですから、いつも顔を合わして、共に生活するという関係でもあります。その関係だけで凝り固まってしまうと、どうなるか?外との接点がなくなります。内輪の関係以外の関係がない状態です。そこには、いろいろな理由と要因があると思います。そうはなりたくないのに、そうなっているという場合もありますが、イエスさまがここで内輪と言う意味は、意図的に、仲間だけで固まろうとしていることを指し示しておられるのです。それによって、結果として、同じ者同士で集まった仲間のつもりが、仲間以外の関係を持とうとしないことによって、もめるということから、もめている本人同士だけではなくて、何でも内輪ばかりになってしまうと、自分たちだけではなくて、それが周りにも及ぶという意味で、荒れ果て、倒れてしまうこと、さらには「彼ら自身があなたたちを裁く者となる」とおっしゃっているのです。

 

老人ホームで生活されている方をお訪ねした時のことです。お食事をするのも、一緒、楽しいことをするのも一緒になります。そういう生活でいらっしゃる中で、だんだんと、お互いに目につくことが出て来るのです。お互いに何をしたかとか、何をされたかといった行動や、何を言ったとか、何を言われたとかということでも、どんどんこと細かくなっていきます。食事も、楽しいレクレーションも、楽しいものであるはずなのに、内輪だけでずっと共に過ごすと、だんだんに「あんなことされた~とか、こんなことをされた」とか、「こんなことを言われたとか、あんなことを言われた~」という、思いと言葉が出てくるんです。それこそ、受け入れることができないということから、排他的になってしまうものです。それは1つの空間の中で、外に自由に出られない状態になると、その世界しかお互いに、見ることができなくなってしまうからです。その結果、その世界の中で、見えることを、さらに細かく、細かくしていきますから、ますますその世界が小さくなってしまいますし、世界を小さく、小さくしてしまいます。でも、それは誰にでも起こり得ることです。閉ざされた空間、ある一定の人だけとの関わりの世界になると、どうしてもそうなってしまうのです。

 

イエスさまに対して、あれこれ言ったり、イエスさまを試そう、罪に陥れようとしていた人たちの世界も、そうです。自分たちの、その内輪の世界に、入り込んでいるのです。だからこそ、イエスさまは、今内輪になってしまっていることだけではなくて、その内輪から、外との接点を持つこと、外に一歩出る事、普段と違う方との出会い、関わりを持つこと、それは具体的に玄関から一歩出るということだけではなくて、私たちの思い、心も、今思っている思いに凝り固まるのではなくて、そこから一歩出ていく必要も、イエスさまは、見抜いておられるのです。

 

だからこそイエスさまは、背中を押して下さるのです。それが、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」この意味は、もし私が神さまの指、力で悪霊を追い出しているのであれば・・・という、もしもそうならば、ではなくて、私が神さまの指で悪霊を追い出しているのだから・・・神さまの国はあなたたちのところにもう既に来たんだ、先に来たんだということなのです。つまり、イエスさまは、内輪もめにつながる同じ仲間意識、仲間内で固まってしまう、そうなる仲間意識を追い出し、投げ出しているのだから、イエスさまは、どんなに仲間内になって、内輪ばかりになっていても、そこにもうすでに、神さまの指によって、力によって、神さまの国、神さまが与えて下さるお恵みを、そこで既に与えて下さっているのです。そして内輪になればなるほど、抱え込んでしまうものを、イエスさまは、私たちがすべて奪い取ってくださり、それを奪い取ったままではなくて、もう一度お恵みとして、分け与えて、分けて配ってくださるのです。

 

それは具体的には何でしょうか?赦しです。イエスさまに対して、追い出そうとし、排他的になっていても、そのために仲間を作り、仲間通しで固まろうとしていても、だからこそ、そこに、赦しがあるんだということ、あなたたちのところに赦しが来ているのだ、ことを与えて、どんなに凝り固まって、思いも、言葉も、行動も、凝り固まっていたとしても、それをゆるしてくださるイエスさまが、もうすでに来ているんだ!という言葉を通して、私たちの背中を、赦しに向かって、押して下さるんです。そこに一緒にいるから、そこで赦しを与えたから、もう赦しが来ているんだから、赦してくださったイエスさまに向かって、一歩踏み出しなさい!と促して下さるのです。

 

イエスさまの十字架がそれです。なぜ、イエスさまが十字架にかかり、その上で赦しを与え、赦しを宣言くださったか?それはイエスさまを十字架に付けようとした人々が、みんなお互いに内輪になっていたからです。内輪になり、仲間同士になり、イエスさまが、自分たちの仲間ではないとお互いに思ってしまったことで、イエスさまを排除しました。だからこそ、そこにイエスさまの十字架が立てられているのです。でもそれは排除したことへの仕返しとか、内輪だけで固まったことへの復讐のためではありません。そうなってしまう、仲間内に凝り固まり、他を排除してしまおうとする、私たちに向かって、その排除されたそのところからでさえも、イエスさまは、赦しを与えて下さっているのです。その赦しが「あなたたちのところに来ている」のです。

 

広島にお住いの方が、バスで仕事に向かっていた朝の出来事を、次のようにおっしゃっていました。

 

平日の朝,バスに乗って仕事に向かっていた時のことです。その日は蒸し暑く,雨が降りそうな天気であったため,バスは傘を持ったたくさんの通勤,通学をする人達で満員でした。道路も車が多く,時刻表通りにバスも進んでいませんでした。「このままだと予定より遅い到着になりそうだな。」と私には少し焦る気持ちがあり,周りを見てみると,時計を何度も見ている乗客もいました。

終点まであと少し,というバス停で,何人かがバスを降りていきました。運転手さんがドアを閉めようとした時,急にドアの近くに立っていた一人の男子学生が,運転手さんに話しかけていました。「また到着が遅れないか。」と思った時,その学生はバスを降りて行きました。バスは停まったままで,ドアも開いたまま。何かあったのかと車窓からその学生を探していると,先ほど降りた人に,学生が傘を渡しているのが見えました。私以外にも,乗客の多くはその姿を見ていたと思います。すぐに学生は戻ってきて元の場所に立ち,バスはまた出発しました。

私と親子ほどの年の差のあるその学生が,すぐに行動できる心の持ち主であることに,私は感心させられました。その後は,蒸し暑かった車内も心なしかさわやかになり,他の乗客の人たちの表情も和やかだった気がしました。朝から元気をもらうことのできた一日でした。そして,元気をあげられる人になろうと思いました。その学生に感謝したいです。

 

バスが思うように進まない時、このままだと遅れるかも…という思いがお互いに同じになると、同じ思いの人同士で、仲間になります。見ず知らずであっても、内輪がそこに生まれます。でもその時、内輪でではなくて、そこから一歩踏み出すことで、また遅れてしまうという思いから、良かった~という思いに変えられていくのです。そのために運転手さんが、バスを一旦降りることを許してくれました。赦しがありました。傘をもって降りるということにも赦しがありました。またバスに戻ることにも、赦しがありました。その赦しが次々と与えられていったからこそ、その赦しがあったからこそ、傘を届けることも、赦されていったのでした。

 

「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 

神さまが与えて下さること、神さまがしてくださる神さまの働きは、赦しです。たとい、赦せないでいるところにでさえも、あなたたちのところに来ているのだ、ともうすでに赦しを与えて下さっています。そしてこれからも与えられ続けていきます。私たちは、どうかすると、何度も何度も内輪になってしまいます。内輪で、お互いにもめ、仲間と仲間ではないという対立を作り上げてしまうこともしばしばです。しかしそうであったとしても、神の国はあなたたちのところに来ているのだ、この約束は本当です。

説教要旨(3月5日)