2023年1月29日礼拝 説教要旨
主の御前に(ルカ21:1~9)
松田聖一牧師
昔のことを、今の若い方々は何というかというと、昭和だ~と言います。昭和というのが、昔ということと、同じ意味に使われています。その昭和には、レコードがたくさん出ていましたね。CDはまだなかった時には、レコードでした。そのレコードですが、今小さなブームになっています。それも若い方に、レコードが好きだ、と言う方が増えておられるとのことですが、なぜ好きなのかというと、レコードがレコードジャケットも含めて、大きいのと、そのデザインがいいということを感じているようです。ということと、レコードに針を降ろすという、あの動作がいいということも言われています。不思議な感じがしますが、便利でないことを、やりたいとか、いい~と感じている方々が出てきています。そのレコードプレーヤーもかつては、蓄音機と呼ばれていましたね。その蓄音機には、大きなラッパの形をしたスピーカーがありました。そこから音が聞こえるようになっていました。そのラッパの大きさも様々です。小さなものから、とんでもなく大きなものまで作られていました。ではなぜラッパの形なのかというと、音が良く聞こえるからです。良く響くと言ってもいいでしょう。
そのラッパのかたちが、この聖書の言葉にある賽銭箱、献金箱とも言い換えることができますが、その賽銭箱の形でもあるのです。大きなものだったかもしれませんが、そのラッパの形をした賽銭箱、献金箱が、神殿の庭に13個並んで置いてありました。そこにお金持ちの方が、献金を入れているのを、イエスさまが見ておられたのですが、その時、かなりの音がしたはずです。しかも献金を入れているという言葉は、投げつけているという意味ですから、そのラッパの形をした、献金箱に、紙幣ではなくて、硬貨、コインを投げつけるように入れていく時、大した音がします。そしてお金を入れる方々は、投げつけて入れた時にどれくらいの音がするかということで、お互いに競い合っていたとも言われています。つまり神殿で神さまにおささげするというそのとき、お互いに、どれだけ音がしたかということで、だれが、どれだけ入れたか、どれほどの勢いで投げつけたかと言うことで、お金持ちの方々が競争していたわけです。
だれが一番大きな音で投げつけたか?そういうことのために神殿でささげていたということの中で、イエスさまは「見ておられた」のです。不思議ですね。金持ちの方々も含めて、神殿にいた周りの人たちは、音を聞いています。どれくらい音がしたか?でもイエスさまは、どれくらい音がしたかという音を聞いているのではなくて、献金を投げ入れているのを見ておられるのです。音がじゃらじゃら聞こえているはずなのに、見ておられるのです。
その一方で、イエスさまは、「ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのを見て」おられるのですが、そこには貧しく、乏しく、困窮しているやもめが銅貨2枚を「入れている」姿があります。レプトン銅貨とは、当時のお金、硬貨のことですが、本当に小さな、わずかな金額です。そのわずかな硬貨、2枚ということに対して、いろいろな見方があるでしょうが、1つ言えることは、大勢の金持ちの方と比べれば、本当にわずかな金額です。でも、この2枚を入れている、投げ入れ、投げ込んでいる、この言葉は、彼女が投げ入れたという意味なのかというと、実は、投げ入れた、投げ込んだという言葉は、3人称複数形で書かれているのです。つまり、レプトン銅貨を投げ入れたのは、彼女一人だけではなくて、他にも誰か一緒に、投げ入れたということになるのです。ところがイエスさまが続けて「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」の「入れた」は、3人称単数形で書かれているのです。
どういうことでしょうか?イエスさまは、彼女一人が銅貨2枚を入れたのではなくて、彼女も含めた少なくとももう1人が、彼女と一緒に投げ入れ、投げ込んだということを見ているのです。ところが、イエスさまが「だれよりもたくさん入れた」と宣言下さる時、彼女一人で「だれよりもたくさん入れた」となっているのです。
アメリカでロサンゼルスオリンピックが開かれた時、マラソン競技で、スイスのアンデルセンという選手が、途中でふらふらになりながら、係員の静止を振り切って、それでも最後まで走り続けた出来事がありました。その時、観戦していたたくさんの方から、大きな声援、大歓声が沸き起こりました。その中で、彼女は、ふらふらになりながらも、最後はよたよたと歩きながらも、大きな歓声の中、ゴールインしました。その場面は、感動の場面として今でも紹介されていますが、ふらふらになりながらもゴールに向かっていたのは、彼女一人です。でも観戦していた方々も、あるいはテレビを見ていた方々も、かもしれませんが、彼女と一緒になっているのではないでしょうか?つまり、たった一人であった彼女に、寄り添い、共にその競技を見守りながら、大歓声を上げていた方々も、一緒にその競技に参加しているような出来事ではなかったでしょうか?一緒に、共に、というのは、そういうことです。入学試験もそうですね。テストもそうですね。受ける人は、その人、本人です。本人以外が受験するわけにはいきません。してはいけませんし、できません。けれども、全く同じにはできないけれども、代わってあげることはできなくても、その場に、その人と一緒に歩むこと、一緒にその気持ちも含めて寄り添うという時、一人であっても、一人じゃないということが起こるのではないでしょうか?
イエスさまがされたことは、そういうことです。レプトン銅貨2枚をささげた彼女と一緒に、彼女と共に、イエスさまが共にいて、イエスさまも、神さまにささげられるのです。たとい、どんなに貧しくとも、どんなに困難な中にあったとしても、やもめと一緒にいて、イエスさまも一緒に神さまにささげていかれたからこそ、イエスさまと共にあった彼女は、だれよりもたくさん入れた一人の彼女となり、そして彼女のささげものは、だれよりもより大きなささげものとなったということではないでしょうか?
そしてその理由も、イエスさまはおっしゃいます。「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」その通り、金持ちたちは、有り余る生活、豊かで余裕がありました。どんな生活だったのでしょうか?具体的には記されていませんが、余裕があるということは、ギリギリじゃなくて、余裕があったのです。その一方で、このやもめは貧しかったし、足りなかったし、窮乏していました。その中で「生活費を全部入れた」という意味は、有り金を全部はたいたということ以上に、彼女は、彼女の人生をすべて、生涯をすべて神さまにささげたということだからです。しかもその人生を、投げ込んだのです。投げつけたのです。それは一見乱暴に見えることかもしれません。でも、人生をすべて神さまにささげるということは、考えたらできないことですよね。いろいろなものがありますし、いろいろなことがあります。これまでの自分自身がやってきたこともある、実績もある、立場もあります。もちろん築いた財産もあるし、受け継いだこと、家などいろいろありますから、それをひっくるめて全部ということは、なかなかできないことです。だからこそ、投げつけるほどに、えいっと自分の手の中から、思い切ってそれらを手放していくということをしないと、なかなかできないことではないでしょうか?どうしても、握りしめようとします。自分のものだと思いますから、大切にしたいから、なかなか手離せないですね。
あるご夫婦がいらっしゃいました。それぞれに特徴がありまして、ご主人は何でも捨てていく方、奥さんの方は、捨てられない方でした。そこでご主人は、捨てろ捨てろと厳しくおっしゃられるので、奥さんは、やむなくゴミ置き場に、持っていくのです。ところが、ご主人がどこかに行ってしまうと、一度ゴミ置き場に運んでいったものを、またもう一回持って帰られていました。そのことをよくおっしゃっていました。「主人が怖いから、一回持っていくんですわ~でも主人がどこかに行ったら、そうっとゴミ置き場から、持って帰るんです~」そんなことを繰り返されているということでしたが、捨てることができないというのは、素直な気持ちだと思いますし、そこには自分の手の中に持っておきたい、握っておきたいということがあるからですよね。それがいいとか、どうとかということではなくて、人間とはそういうものだということです。捨てることができることと、捨てられないことがある、自分の手の中に握っておきたい、持っておきたいというものがあります。そういう持っておきたいということも含めての自分自身も、自分で握っておきたいのです。でもそれを自分から手放すということは、思い切ってやろうとしないと、なかなかできません。
そういう彼女でもあったと思います。そして同じことは、神殿について話しているある人たちもそうです。イエスさまがおっしゃった通り、神殿と神殿にあるいろいろな装飾に見とれていた人たちは、それがなくてはならないものとして受け取っていたのではないでしょうか?それは、この神殿が見事な石であり、見事な奉献物であり、それらのもので、飾られていたからです。そのために、人が、一生懸命に、築いてきたし、ささげてきたし、神殿を建てました。そこにはすごいお金と労力がいったと思います。しかし、そんな大変なお金と労力を注いで作った神殿を始め、その中にある装飾、石も含めて、地震や、大きな災害が起きた時には、凶器と化してしまい、人を傷つけたり、人の命を奪うことにも繋がります。つまり、人がああいいなあ~見とれるほどになっているものも含めて、人が作ったものは、時と場合によっては、その人を傷つけ、滅ぼしてしまうこともあるのです。ブロック塀、大きな庭石など、出来上がった時には、ああいいなあと眺めます。大きな箱もの、ホール、公民館など、見目麗しい素敵な建物がいろいろありますが、いいなあと見とれるものであっても、ひとたび何かが起こると、凶器となってしまいます。だからといって、なかったら困るものですし、必要なものです。ただ、人が作ったものに、見とれて、それがすべてのように受け取ってしまうと、結局は、見とれている自分自身に見とれていくのではないでしょうか?神さまに、ではなく、自分自身に心が向いてしまいます。
けれども、イエスさまは、そういう人の手でつくられたものは、永遠ではないとおっしゃられるのです。永遠に続くものではなくて、いつか、何かのことで、残ることのない日が来るのです。そのことを「1つの石も崩されずに、他の石の上に残ることのない日が来る」と説明されますが、その意味は、どんなに滅ぼされない石であっても、残らない石として、残り続ける石であり、滅ぼされない石でもあるんです。では、その滅ぼされることのない石とは、神さまであり、また神さまであられるイエスさまが、十字架にかかり、その上でなくなられ、墓に葬られても、そこで終わったと周りがどんなに見ていたとしても、そこで終わることがない、今も生きて働いておられるイエスさまを現しているんです。
ということは、人が「そのことはいつ起こるのですか。」「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という言葉も、人から出た言葉、その人の言葉、その言葉を持つ、その人も含めて、いろいろと言っていても、思っていても、それらのものも、すべてが、滅ぼされることのない石、永遠に続く神さまの上に、続くということなのです。
そこに向かって生きようとするとき、イエスさまが一緒におられるという生き方に、人は変えられていきます。その人だけではありません。神さまの前で、神さまに向かって生きようとし始めていくとき、その人も、その周りの人も、変えられていきます。
ある教会でのことです。ずっとその教会は、日曜日だけお借りしての礼拝が続いていました。けれども、それでは普段のいろいろなことで不便さもありましたから、自分たちの教会の会堂が欲しい、会堂が与えられるようにという願いが与えられていきました。でもいざ本当に実現しようとすると、どうしてもしり込みしてしまいます。ですから、思いはあっても、なかなか・・・という感じでいた時、一人のおばあさんが、大きな壺を持ってきました。そのおばあさんはつつましやかな生活をされていた中で、買い物で出たお釣りなどを、その壺にずっとためていたものでした。それを持って来て、こうおっしゃられたのでした。「これを会堂建築のために使ってください。これをおささげします」と。それを目の当たりにした教会の方々は、びっくりしました。「このおばあさんが、ここまでおっしゃっておられるんだから。ここまでされたんだから。私たちも動き出さないと・・」そこから心が動かされ、建築のための、ささげものが始まり、何年も何年も積み立てられていきました。会堂がようやく建ったのは、それから40年近くたってからのことでした。もうそのおばあさんは天に召されていました。その後、神さまの会堂、神さまの教会を建てたいと願っておられた方々の多くも、天に召されました。でもその方々がいらっしゃらなくなっても、そこには神さまから会堂が与えられていました。でも予算の都合で、駐車場に使うお金がなくなってしまい、最初は砂利をひくということでしたが、会堂のことを聞かれた、方々から、駐車場のためにということでささげられた時、駐車場は、アスファルトの駐車場になっていました。1つの教会が、天に召されていかれた祈りとささげものによって、与えられ、建てられていきました。1人の方の、神さまの前で、神さまと共に、イエスさまと共に、生きようとしたとき、物事が動かされていきました。不思議なことです。この教会もそうですね。天に召された方々の祈りも、こめられています。天国で祈って下さる多くの方々がいます。歴史が140年を超えますから、140年前に導かれ、イエスさまを信じて、天国に行かれた方々が、今も、応援団として祈って、そして、今、この礼拝に、天国から一緒に集って、共に神さまを讃美しています。そういう意味で、教会には人が増え続けています。減ることはありません。天国会員がどんどん増えています。増えて増えて、そしてその方々と一緒に、礼拝に繋がっています。
そういう意味で、ここで行われているこの礼拝は、ここだけの礼拝ではありません。神さまの国、天国において、召された多くの方々と共に、礼拝がささげられ、守られています。すごい讃美がなされています。神さまに愛され、神さまと共に歩まれた方々と、つながっています。
その神さまの前で、神さまという、決してなくならない土台、石の上に、私たちもいます。その神さまに向かって、いろいろなこと、手放せないことも含めてのわたしを、投げ込んでいくこと、投げていくこと、そのことを、待っておられます。このやもめは、自分の人生を神さまに全部、自分のものでありながらも、自分の手から離していくことを、ここでできました。いやそうするしかなかったかもしれません。もう後はお任せするしかない、というところにいたかもしれません。しかしそんな彼女を、イエスさまは見ておられ、イエスさまもささげものとして、一緒に神さまに向かって投げ込んでくださったのです。
イエスさまは、銅貨2枚だけを見ておられたのではありません。彼女がいつもイエスさまと共にいること、イエスさまがいつも共にいて下さる、一緒だということを、イエスさまは見ておられるのです。