2023年1月15日礼拝 説教要旨

少しのことが(ルカ5:1~11)

松田聖一牧師

 

阪急電車という鉄道があります。京都から神戸までをつないでいる鉄道ですが、人口が多い所を通りますので、通勤、通学時間帯に重なりますと、電車は超満員となります。その時、乗っているとどういう感じになるかというと、自分のカバンが他の乗客との間に挟まってしまうと、人と人とが密集していますから、なかなか取れません。そういう状態の中で、駅に着くたびに更に人が乗ってきます。そうしますと扉が閉まらないほどにまでなりますが、そういう時に、ホームの方から、扉からはみ出た人を、電車の中に押し込むアルバイトがあります。緑のユニフォームを着て、ホームの方から何人かずつで、よいしょとお客を中に押し込んでいきます。そうすると中にいる人たちも、その人の波に押されて、電車の中で、押しつぶされそうになりながら、体は傾いたままの姿勢になります。そういう意味で、人の波が押し寄せるというのは、本当にすごい力がかかります。身の危険を感じることもあります。ですから、そういう人が集まる何かの大きなイベントの時には、人が密集しないように、事故が起こらないように、警備が厳重になっています。

 

イエスさまのもとに人が押し寄せて来たというのは、そういう状況です。というのは、押し寄せて来たという言葉には、横穴式のお墓の入り口を石でふさぐという意味もあるからです。そのふさぎ方は、すきまがないほどに、ピタッとふさいでいきますから、密封するような感じです。それくらいのことが起きているのです。だから、いくら人々が、神さまの言葉を聞きたいと願っても、この時、イエスさまも、そして群衆も、押しつぶされるかもしれないという状況にもなっていたとも言えますから、聞くことができるような状況だったのか?というと、それどころではないと言えます。押し合いへし合いの中で、そんな余裕はなくなっているのではないでしょうか?でもどうして隙間のないほどに、群集が押し寄せたかというと、イエスさまから神さまの言葉を聞くためにです。しかし実際には、イエスさまから神さまの言葉を聞くということ以上に、神さまの言葉を語って下さる、イエスさまの少しでもそばに行きたい、イエスさまを間近で見て、そして聞きたいということでもあるのではないでしょうか?つまり、聞きたいという願いに、少しでも近く、ということを付け加えていくのです。言い換えれば、聞くという1つの目的のはずなのに、そこに別のことを付け加えているのです。

 

だからすきまがないほどになっていたことから、よりよく神さまの言葉を聞くことができるように、聞くという1つに集中できるように、またイエスさまご自身も、群集も、安全が守られるように、2そうあった舟のうちの、1そうの舟、シモンの持ち舟に乗っているのです。

 

つまり、イエスさまは、神さまの言葉を聞くという1つが守られるように、その場所、環境を作ろうとされているのです。一般的にも、大勢の人を前にする時には、壇上に上がることでより語りやすくなりますし、より聞きやすくなります。そのために、「岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」ということでもあるのです。その通りになることで、イエスさまは、ゲネサレト湖、すなわちガリラヤ湖の、湖の上に浮かんだ舟から語るかたちになります。当時はマイクとか、スピーカーとかは、もちろんありませんから、湖の上から語ると、声が湖面に響いて、ちゃんと群衆に届くようにできるということを、イエスさまは知っておられたでしょうし、考えておられたのではないでしょうか?そういう意味で、イエスさまが、少し漕ぎ出すようにお頼みになったというのは、神さまの言葉を聞きたいと願った群衆に、よりよくその言葉が聞こえるように、見方を変えれば、群集全員が、イエスさまの顔を間近で見ることはできなくても、その表情が分からなくても、神さまの言葉が、群集がどこにいようとも、どんなにイエスさまから遠く離れていても、神さまの言葉が、どなたにも届くように、どなたにも聞くことができるようにされるのです。

 

声が良く聞こえる場所というのは、建物の中でも同じです。コンサートホールもしかりですね。ホールの中でも、良く聞こえる場所と、そうではない場所というのがあります。それは演奏者の近くがいいかというと、必ずしもそうではないです。それは、この会堂内でも同じことが言えますね。マイクを通さずに、会堂の中で、一番よく響く場所と、一番よく聞こえる場所があります。一番よく響く場所は、この十字架の本当に真下です。そこに立ちますと、小さな声でも、良く響きます。そして一番よく聞こえる場所はどこかというと、玄関から入ってすぐ右の、手洗い場のところです。そこで聞くと、あたかも目の前で聞いているように聞こえるのです。不思議ですね。どうして、会堂の前の方ではなくて、一番後ろの、手洗い場のところで一番聞こえるのか?本当に不思議です。ただ今はスピーカーが、あちこちに付いていますから、マイクを通すと、それほどの違いはありませんが、イエスさまはそういう聞くということができるように、群集に神さまの言葉が、よく聞こえるように、語る場所を選んで、定めてそこに身を置かれるのです。

 

その結果、群衆のニーズにこたえられるのです。そういう意味では、神さまの言葉がいちばんよく聞こえる場所を、こしらえて、そこに案内する必要があります。この会堂であれば、一番よく聞こえる場所、それだけで言えば、講壇の目の前ではなくて、玄関から入ってすぐの洗面所のところです。それほどにイエスさまは、神さまの言葉を聞くという1つのことのために、イエスさまの方から、動かれるのです。

 

ここで、舟を少し漕ぎ出すということについて、別の視点から考えてみたいと思います。少しというのは、少しですが、舟という水に浮かぶものですと、少しというのは、実に難しいことですね。先ほどは、小さじ少々ということで、そのさじ加減も難しいですかが、水の上に浮かんでいる舟を少しというのは、車といった車輪が地面に密着しているのとは全然違います。少し動かして、ブレーキをきゅっとかけて止まるものではなくて、舟を止めるためには、一般的には舟のスクリューを逆回転させます。でもそういう舟ではありませんから、オールか手こぎかもしれませんが、それを使って、少しで止まるように、少し漕ぎ出した分、逆向きに舟をこぐということをしなければ、沖に流されてしまって、少しに舟をとどめる事にはなりません。

 

それほどに、イエスさまが、「岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」ことは、漁師たちにとっても、簡単なこととは言えないのです。そんな中で、イエスさまはその舟に乗って、群集に神さまの言葉を語り、話し終わったわけですが、それで終わりかというと、さらにイエスさまが、シモンに言われた「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」は、もっと難しいと感じる内容なのです。

 

その理由は、シモンがイエスさまに「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と言った通り、シモンも含めて、沖に漕ぎ出して~と言われた時、漁師たちは、私たちは夜通し苦労しました、もう疲れ果てました!もういやになりましたという、肉体的にも、精神的にも疲労困憊の状態にあるからです。その通り、シモンも含めて、漁師たちは、本当に疲れ切っているのです。それはそうです。夜通し、湖のあちこちに網を降ろしてはあげ、降ろしてはあげを繰り返したことでしょう。でも何一つ魚が取れなかったのです。本当に苦労したのです。でもイエスさまは、たとい、夜通しやって何も取れなかったということであっても、その結果に基づいて片づけている彼らを、片づけるという方向から、一度はあきらめていたことであっても、もう一度挑戦できるように、「沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい」という言葉を与え、もう一度というところに、イエスさまは仕向けてくださるのです。

 

その時に、シモンは、「網を降ろしてみましょう」と答えていくのですが、その言葉をよく見ると、網を降ろしてみましょうは、1人称単数の未来形です。ところが、それまでの「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」は、私たちは、なのに、「網を降ろしてみましょう」は、私は必ず降ろします!私はやってみます!という、他の漁師たちは疲れ果て、もういやになっている中で、シモン一人、私は、必ずやりましょう!という、思いと言葉に変えられているのです。それはイエスさまの「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」この言葉を、シモンは、あなたの言葉として聞くことができたからです。あなたの言葉として受け取った時、イエスさまからの言葉は、私への言葉となり、私の言葉となっていったのではないでしょうか?その意味でシモンは、「お言葉」として、受け取り、お言葉として、聞くことができたのです。

 

その言葉に他の漁師たちは、どう思ったかは分かりません。えっと驚いたかもしれません。でもシモンの、私は必ず網を降ろします、降ろしましょう!というその言葉に、漁師たちがその通りにしたとき、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう1そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、2そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」

 

おびただしい魚がかかって、網が破れそうになった時、「もう1そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ」とき、もう1そうの舟にいる仲間が来てくれて、「2そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」ということですが、1つには、1そうでは取りきることができないから、もう1そうにも手伝ってもらったということです。つまり、1そうでは魚を取りきることができないので、もう1そうの舟にいる仲間と協力し合うことで、初めて、取れた魚を舟に積み込むことができたということです。でもそういうことだけではなくて、まだ岸にあったもう1そうの舟、その仲間に「来て手を貸してくれるように頼む」ということに、沖に漕ぎ出した1そうの舟の漁師たちは、もう1そうの舟の漁師たちを、自分たちの仲間であるということに、同意したからこそ、もう1そうの舟の仲間たちも来て、手を貸してもらえたという、その合図なのです。ただこっちに来て、助けてくれということを、沖に漕ぎ出した1そうの舟の漁師たちが、合図をしたというだけではないのです。そしてそれは、もう1そうの舟にも、来て助けてもらうことを同意することで、もう1そうの舟の仲間たちにも、魚の分け前は、彼らのものになることを、認めていくということでもあるのではないでしょうか?

 

というのは、それぞれの漁師は、生計をたてるために魚を追い求めています。シモンの持ち舟の漁師たちも、シモンも、それを求めていましたから、沖に漕ぎ出して網を降ろしたら、求めていた魚が取れたことで、イエスさまがおっしゃった通りになったことを目の当たりにしましたし、取れた魚は自分のものにすることができるのです。他の人たちに分けるよりも、自分たちの生活のために、その魚を市場に出していくことができるようになったのです。でも、後から助けに来てもらったもう1そうの舟の漁師たち、仲間たちは、そういう最初の少し漕ぎ出すことも、沖に漕ぎ出すことも、やっていないのです。その仲間に、自分たちに取れた魚を、助けを求め、魚を分けていくということは、なかなか出来る事ではないのではないでしょうか?

 

魚が半分になるのですから、収入も半分になります。そういうことは漁師魂としては、どうなんでしょうか?そして、来て手を貸したもう1そうの仲間たちにとっては、大変な利益を得ることにもなるのです。それを最初の1そう目の仲間たちが受け入れ、同意したということは、実はすごいことなのです。その時、最初に沖に出た舟の漁師たちの、その言葉や内面の思いは、現わされていませんが、いずれにしても破れそうになるほどの魚が取れた時、1そう目の舟にも、もう1そうの舟にも、「魚でいっぱいにした」つまり、魚でいっぱいになったのではなくて、いっぱいにしたということは、ともかく網にかかった魚を全部、舟に載せられるだけ載せようという思いと、たくさん魚が欲しいという欲望があるからこそ、湖に戻すことなく、舟に載せたということではないでしょうか?

 

その結果舟は沈みそうになったのです。でも沈みそうになるということは、漁師たちには分かることかもしれません。だからそうなる前に、湖に魚を返したらいいのではないでしょうか?でも、そうはしなかった、そのことを見たシモンは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」と、イエスさまに、わたしから離れてください、わたしは罪深い者ですと、自分の罪が分かったのですね。シモン自身、イエスさまのおっしゃることに、最初は夜通し苦労しましたが、何も取れませんでしたと、その夜の結果だけしか見えなかったこと、それでも、あなたの言葉ですからと、あなたの言葉として受け止め、信じてやってみようとしたところまでは良かったのですが、その結果すごい量の魚が取れた時、取れた魚を網が破れそうになっても、舟が沈みそうになっても、全部舟に、自分たちのものにしようとしたその姿を、見せつけられていったのではないでしょうか?あなたの言葉として聞いた、イエスさまの言葉は「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」です。網が破れるほどに、舟が沈みそうになるまで舟に魚を積めとはおっしゃっていないのです。ということは、あなたの言葉に、従ったのはいいんだけれども、与えられた結果が、大漁だったという目に見えるすごいことが与えられた時、あなたの言葉に聞くという1つのことから、離れて、魚を取れるだけ取りたいという態度、欲望の塊であるという姿を見せつけられたからではないでしょうか?

 

そういう姿を見せつけられた時、シモンは愕然としたと思います。自分自身の恐ろしさに気づかされたことでしょう。でもそんなシモンに「恐れることはない。あなたは人間を取る漁師になる」と言われた時、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従ったのでした。それはヤコブも、ヨハネもそうでした。それは目に見えるものに頼ろうとしてしまう、その目に見えるものから、目には見えないけれども、確かに語られ、与えられている、あなたの言葉、イエスさまの言葉に、従うということでもありました。シモンも、ヤコブも、ヨハネも、あなたの言葉に、聞くという1つのことから、何かあるとすぐに離れて、自分の思いや欲望を付け加えて、それにとって変えてしまうことが、この時もそうでしたし、これからもそれを起こしていくのです。けれどもイエスさまは、そういう彼らであったとしても、もう一度、そこから「人間を取る漁師になる」今はそうではなかったとしても、イエスさまは、そこでもう一度、やってごらんと、人間を取る漁師になるということへと、今はそうではないかもしれないけれども、そうなるとイエスさまは信じて、何度も何度も、あなたは人間を取る漁師になると認めて信じてくださっているのです。そこからイエスさまと共に、一歩踏み出せるようにと、導き続けてくださっているのです。

 

星野富弘さんという方がいます。体育の教師として模範演技を生徒たちの前で見せようとされた時、首から下が動かなくなりました。後に、イエスさまに出会い、信じて歩まれている中で、指の代わりに口に筆を加えて、絵や詩を書いておられます。その1つに「もう一度」という詩があります。「鈴蘭の花 涙のように咲いていた 羽のある鳥になって 遠い所へ飛んでいきたかった けれど もう一度 もう一度 やってみよう あの日のことが なかったみたいに 日々は巡り 私には眩しすぎる 陽が昇る 夜の底から静かに聞こえた 夜明けの歌声 折れた枝の桜は咲いて 鈴蘭の花 真珠のように揺れている もう一度 もう一度 やってみよう 翼はないけれど 自由な心と夢がある 今私が立っているここから この一歩のところから 明日へ続く道が始まる」もう一度やってみよう!今私が立っているここから、もう一度やってみよう!イエスさまは、何度も何度も、もう一度やってごらん!と力づけて、倒れそうになっても、倒れてしまったとしても、そこから立ちあがらせてくださいます。

説教要旨(1月15日)