2022年9月18日礼拝 説教要旨
喜んで(マルコ12:35~44)
松田聖一牧師
がんこ寿司というお店があります。そこである時、研修の合間に、お昼を食べました。ごはんおかわり自由と書いてありました。キャベツもおかわり自由、お味噌汁もです。そうすると、そういうお店にするすると入ってしまうのです。そして、おかわりを頼んだ時、お店の方が、どの店員さんもでしたが、「喜んで」とおっしゃっていました。喜んでというのは、喜んでそうしますということですし、その言葉にも、その後の動きにも、喜びがあって、「喜んで」が、どの店員さんからも出てきます。その喜びは、伝わります。その喜んでという言葉が、がんこ寿司という、「がんこ」のついたお店にあるということに、興味を持ちました。そこから、気づかされたことは、がんこと喜びというのは、関係があるということではないか?ということです。そのことに触れる始まりとして、まずは頑固という言葉から見る時、その言葉の通り、頑なに、固いという言葉が繋がっています。つまり頑なと、固いという両方が固いという意味の言葉が重ねられていますから、とんでもなく固いということですね。頑固さは柔らかいものではなくて、本当に固いものです。なかなか柔らかくはなりません。その頑固さが、出て来る1つに、「思い込み」というのがありますね。実際の事実はそうではないのに、また実際にはそんなことを言われてはいないのに、実際のこと、実際に語られたこととはまるで違うことを、思ってしまうことです。そして一旦思い込んでしまうと、なかなかそうじゃないよ~と言われても、一度思ったことが頭から、離れられません。変えるということが難しくなりますね。それは、「メシアはダビデの子だ」ということを言っている、律法学者の方々の姿でもあります。
というのは、この言葉「メシアはダビデの子だ」メシア、すなわちキリスト、イエスさまのことですが、このイエスさまはダビデの子だと、律法学者たちが言っているその言葉の、根拠となる聖書の箇所は、ダビデのいよいよ生涯を終えようとした時に、語った言葉から来ているのです。それはサムエル記というところにある、この言葉です。「主の霊はわたしのうちに語り、主の言葉はわたしの舌の上にある」この言葉の意味は、神さまがダビデの内に語り、神さまの言葉は、ダビデの舌の上にある、つまり神さまの言葉は、ダビデ自身にいつもあるので、その言葉をダビデは、語り続けていたということです。
そしてこの言葉は、神さまへの感謝の言葉でもあります。これまでの歩みを導いてくださった神さまが、いろいろな足らないこともたくさんあったけれども、それでも、支え、助け、導いてくださったことへの感謝です。それは、ただ神さまが助けてくださり、神さまがして下さったことだらけの中で、歩むことができたことへの感謝、ありがとうの思いでした。
そういう意味で「主の霊はわたしのうちに語り、主の言葉はわたしの舌の上にある」とは、ダビデの神さまへの信頼の言葉でもあります。それは、神さまがいつも、ダビデに語り、そしてその言葉を語る時、それは神さまが語らせてくださったという信頼です。
その意味で語った言葉を、律法学者は、「メシアはダビデの子だ」と受け取っているのです。でも、そんなことをダビデが思っていたわけでも、言ったわけでもありません。でも律法学者が、どうしてダビデが言った言葉を、違う言葉、違う意味に変えていくのでしょうか?
それは彼らがそう変えているからです。メシアはダビデの子だ、彼らがそう思っているから、その言葉が出て来るのです。思っていなかったら出てきません。でも、その出て来た言葉は、本来語られている言葉とは違いますから、律法学者たちが言っていることは間違いです。間違いだから、間違っていると言えばそれでいいわけですが、イエスさまは、そのことについて、どうして言うのか?とおっしゃられるのです。なぜ「どうして」というのでしょうか?違うと言えば、それで済むことなのに、どうして?があるのかというと、その「どうして」にある、別の意味を通して見えてきます。どうして、には、どのようにしてとか、どういう風にとか、どうしたら、といった意味があります。つまりイエスさまは、間違った内容であっても、本気でそれが正しいと思い、そう言っている律法学者が、どうしてそう思い、そういっていくのかという、理由をイエスさまは、尋ねていくのです。それは、メシアはダビデの子だ、ということを彼らが、どこかの時点で教えられてきたこと、そういう教えを受けて育ってきたからこそ、どこかで、誰かから、「メシアはダビデの子だ」ということが、彼らの中に刷り込まれているということを、イエスさまは分かろうとしているのではないでしょうか?
あるテレビ番組で一人の方が、ご自身の受けた戦前の教育と、戦後の教育について、こうおっしゃっていました。「かつて少年時代、軍国主義教育を叩きこまれて、本気で、その教えられていたことを信じていました。信じ込まされていました。でもそれは間違った教育でした。でも当時は、正しいと本当に思っていました。そういう意味で、教育というのは、恐ろしいです~だからこそ、平和をこれからの若い方々に受けついでほしい」と、おっしゃっていたことでした。そのように、教えられ、有無を言わせずに叩き込まれてしまうと、内容が、どんなに間違っていることでも、本当のことではなくても、それが本当だと、信じ込まされていきます。理屈じゃなくて、体にしみこんでいきます。
イエスさまは、律法学者たちが、学者となっていく中で、これは本当だと教えられてきた、その背景にも踏み込もうとしているのです。そして、律法学者となっていくためには、教えられたこと、叩き込まれたことに、違うとは思えなかった、その彼らの背景、立場にも立とうとして、どうして、とおっしゃっているんです。そしてその「どうして」は、(38)以下にある「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」ということが、どうしてそうなるのか?ということまで続いているのです。長い衣をまとって歩き回ること、長い衣を着るという意味は、神さまの前で、自分自身を覆い隠すという意味ですから、それを着ること自体は間違いではありませんが、それをまとって歩き回ること、広場で挨拶されること、上席、上座に座ることを望むことというのは、単にそうしたいということだけではなくて、自分自身を見せびらかしたいという思いの現れの行動だということと、そこにもどうしてそうなるのか?というイエスさまの問いがあるというのは、見せびらかそうとすること、周りからいわば、ちやほやされることを望んでいるだけではなくて、その裏返しにある彼ら自身にある自己肯定感の低さをも見ておられるのではないでしょうか?それは思い込みも含めて、見せびらかしたりすることも、自分をよく見せたいという思いの裏側には、傷つきやすくて、それでいてプライドが高くて、頑固がそこにあるからです。ちょっと何か言われると、全てが間違いと言われたわけではないのに、自分が否定されたかのように受け取ってしまう、そんなガラスのハートという面も、イエスさまは、どうして?という問いを通して、彼らの背景、これまでの歩み、教えられたことだけではなくて、自分以上に見せないといけないプレッシャーがあったのかとか、傷つきやすいのに、なかなか素直になれないでいる、その姿も、イエスさまはちゃんと見ていて下さるのです。見ているだけではなくて、そういう彼らだということを、イエスさまは、確かに間違いを正されるお方ではあっても、それでも、彼らを受け入れようとしているのです。認めようとしているから、彼らの具体的な姿、その背景に至るまでも、イエスさまは、どうしてそうなっているのか?どうしてそうなったのか?にまで踏み込んでおられるのです。
そんな律法学者たちの側にも立とうとして、イエスさまは、どうして?と尋ね乍ら、(36)ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。すなわち、ダビデが語ったことは神さまが語ったことであり、神さまがダビデを通して、ダビデに語らせたことだということを、イエスさまは、神殿の境内という律法学者たちの居場所、働き場でもあるところで、そして何よりも神さまにささげられた聖なる場所で、イエスさまが神さまの言葉を正しく伝えていくのです。
そして「大勢の群衆はイエスの教えに喜んで耳を傾けた」のです。
さて、この群衆の喜び、とは、イエスさまが、ただ単に律法学者たちが言ったことの間違いを、ここで論破したからとか、間違いを正して下さったから、喜んでいるということではなくて、イエスさまが、律法学者に対しても、その立場にも心を配りしながら、でもそれで終わることなく、ここ神殿で神さまの言葉を正しく群衆に語り、教えてくださったからです。群衆は、イエスさまが、相手のことにも心を配りながら、語られたイエスさまの言葉を、神さまの言葉として正しく聞けるようになったのです。そして神さまの言葉を聞けた喜びが、群衆に与えられたのです。
教会で毎週昼食会をしていたときのことです。毎週、毎週お昼を婦人会の方々が用意くださっていました。その礼拝後のお昼は、初めて礼拝に来られた方には、無料でお召し上がりくださいというもので、時々、初めて来られた方々も一緒に戴いていました。ある時、一人の初めての方が来られて、礼拝堂の丁度正面の先生がいつも座られるところの隣に座られて、かす汁でした。「おいしいですな~おいしいですな~」と言って、おいしいおいしいと喜んでいただかれて帰られたのでした。それからその方の顔を見ることはありませんでしたが、丁度一年ほどたったころ、礼拝に来られて、そして初めてきましたということで、また礼拝堂の正面の先生の隣に座られて、おいしいですな~おいしいですな~と言って喜んで食べて帰って行かれました。なぜだかその時もかす汁でした。その時、子ども心に、あれ?と思いました。確か去年来られたおじさんだ~でもまた来られて、どうして初めてですと言われたんだろう?そう思ったことでした。そのおじさんは、それっきり教会には来られませんでした。
確かに、初めてじゃないのに、初めてと言うのは、間違いです。子ども心にそう感じたと思います。でも今そのおじさんのその姿を通して、確かに初めてじゃないのに初めてと言われたことは、そこに間違いがあったとしても、それでもそのおじさんは、教会に来られたということ、そして神さまを喜んで讃美して、礼拝をささげて、そしておいしいですな~おいしいですな~と与えられた食事をいただいて帰られたことは、それもまた神さまのお恵みでしたし、それがその方の喜びとなっていたのではないかと、今、思います。どんな背景を持っておられたのかは、推し量ることはできませんが、そういう意味で、教会に来られるというのは、その方が自分から行こうと思って来られた、ということだけではなくて、神さまが、その方をいらっしゃいと呼んで、招いて下さったからこそ、一人の方が教会に来られるのです。
それは、イエスさまのもとにいた大勢の群衆もそうですし、賽銭箱にレプトン銅貨2枚、1クァドランスという少額のものをささげた、一人の貧しいやもめもそうです。彼女もイエスさまのもとに、イエスさまが呼びかけ、招かれたのです。そこでささげたものは、わずかなものであったと言えるでしょう。でもここでイエスさまが「だれよりもたくさんいれた」とおっしゃっている意味は、持っている全部を銅貨2枚という少額であっても、全部を入れたという意味ではなくて、彼女自身が、自分の人生を、神さまに全部任せたという意味で、イエスさまは彼女を受け取って下さっているのです。生活費を全部入れたという意味も、彼女の人生、すべてを神さまに任せて、委ねていったということなのです。それはどこから来るのか?イエスさまが彼女も呼びかけ、招いて下さったからです。そして彼女の人生、これまでの生きて来たすべてのことを、イエスさまは、どうして?と理解し、受け入れて下さっていたからです。
すべてのことを、分かって下さって、受け入れて下さるイエスさまに出会えた時、人は、楽になれるのかもしれませんね。
むすんでひらいてという歌がありますね。これは明治の初めごろに日本に伝えられた文部省唱歌の1つです。文部省唱歌は、もともとは神さまを賛美する讃美歌ないしは、神さまへの思いと、喜びを歌った歌です。赤とんぼもそうです。その歌詞には、神さまのこと、イエスさまのことが、その歌には流れています。そういう意味で、むすんでひらいてという歌の、歌詞を見る時、結んで開いていた手を、上に上げるという言葉があります。その手を上に、とは、自分自身がこれまでの生きて来たすべてのことを、自分自身で握り占め続けるのではなくて、その手を、開いて、神さまに任せていくという姿でもあります。
むすんで ひらいて てをうって むすんで またひらいて てをうって そのてを うえに
私たちには、握っているものがいろいろあります。手を開けないものがあります。それが生き方の背景として、教えられ、刷り込まれ、叩き込まれたものでもあるでしょう。それはなかなか手を開いて、神さまにお任せということには、すんなりはいかないことも多いです。でもイエスさまはその手を結んで、握っているもの、どうして、握らなければならなかったのか?にまで、どうして?と問いかけ、分かろうとして下さり、そして分かって下さっています。そしてそんないろいろを握りしめて、手を上に上げることができないでいても、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげると約束下さった通り、握りしめ続けていても、それでも招いて、受け入れてくださっています。そのことに出会った時、どんなに頑固であっても、喜びが与えられ、喜んでできるようになります。その一つ一つが神さまのなさることだからです。そういう意味で頑固と喜びは繋がっています。神さまがつなげてくださるので、つながります。