2022年8月14日礼拝 説教要旨

互いに平和を(マルコ9:42~50)

松田聖一牧師

 

この手には指がありますね。この指の部分はどのようにして、このような形になるのでしょうか?それはこの指と、指の間にもともとあったもの、細胞が自ら死んでいくことで、指の形になっていきます。

 

そのことを科学映画「アポトーシス、細胞の死から生命を考える」で紹介されています。この映画では、お母さんのおなかにいる赤ちゃんの、指がどのようにして出来上がっていくかを、連続的にとらえています。その様子を見る時、赤ちゃんの手は、最初平たい板のようなかたちをしていますが、やがて、指と指との間の細胞が、自発的に死んでいくことによって、だんだんに指の形が出来上がっていきます。やがて完全な手の形が出来上がっていきます。その意味は、そこにある細胞が死ぬということで、切り捨てられ、切り離されないと、指という形になってはいかないということですし、私たちにとって、必要な指が、指となるためには、指にはならないものが、死ぬということで、切り捨てられていく姿であると言えるでしょう。

 

それはイエスさまのおっしゃられた、「わたしを信じるこれらの小さなものの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれ」ること、片方の手、足を「切り捨ててしまいなさい」ということ、「片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」と言われる、一見すればすごい出来事と見える、その意味と目的にも繋がっていきます。なぜかというと、切り捨てられ、取り除かれることで、本当に必要なことが、何であるか?が、明らかにされ、与えられるからです。

 

順を追って確認しましょう。まずは、イエスさまを信じるこれらの小さなものの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうが「はるかによい」とおっしゃいますが、この石臼というのは、ろば引きの大石臼、ろば用の大石臼です。その石臼は、人の手で動かすひきうすとは違って、ろばでなければ動かせないほどに、重い石臼です。石臼というと、小麦をひいたりして、粉にしていきますが、その大きな石臼を、ろばが引いていくのです。

 

ところが、ここではその石臼を首に懸けて、海に投げ込まれるということになると、首に懸けられたその人は、間違いなく海に沈みます。浮かびあがれません。

でもそれは本来の石臼の使い方ではありません。石臼は小麦をひき、小麦粉となって、パンやいろいろなものに使われ、まさに命を支え、命を守るためのものにするためのものです。

 

そして首に懸けることも、海に投げ込まれることも、その人ではなくて、誰かがその人にしなければ、首になんてかけられません。海に投げ込むこともそうです。そして首にその石臼がかけられている状態で、自らが、海に投げ込むようには動けません。その時、何が使われるのか?というと、誰かの目、手や誰かの足が使われるのです。

 

つまり、誰かがその人をこの目で見て、そして誰かが、手を使い、足を使っていくことで、ろば用の石臼を、その人の首に懸け、海に投げ込むという、残酷なことになっていくのです。

 

また、手も、両手ではなく、片手にすることも、両足から片足にすることも、目を抉り出すなんていうことも、その本人がするわけではなくて、誰かが、その人の手や足や、目にしなければ、こんなことなんてできません。

 

ではそれを誰がするのか?人間がするのです。

 

今から40年ほど前に、人間を返せという映画が上映されました。広島の原子爆弾の惨状と、それによって亡くなられた方、けがをされた方、放射線によって、その時は元気だったのが、白血病によって、命を落とされていくといった映像と、写真が公開されていました。その映画を、当時、小学校6年生でしたが、担任の先生が、クラスの子たちに、これはちゃんと見た方がいいということで、クラスで見に行くことになりました。その前に、平和についての学習をして、どれほど戦争が悲惨なものであるか、そして原爆がどれほどに悲惨なことになるのかということを、共に学んでからその映画に臨みました。ショックでした。人がこんなになってしまうのか?人として、判別がつかないようなものまでが紹介されていました。そして目や、手や足が、それまでとまるで違うありさまがあり、あまりの苦しみと、痛みで、殺してくれ~と叫び続けていくという、その姿を目撃された方の証言などがありました。

 

こんなことになるのは、本人が、そうしたかったらではもちろんありません。本人じゃない、人がしてしまった結果です。

 

でも本来、人にある目、手、足は何のためにあるのかというと、人を傷つけ、人を苦しませるためにあるのでは、決してありません。神さまであるイエスさまは何とおっしゃっているか?神を愛すること、自分を愛するように、あなたの隣人を愛するということのために、自分を大切にするように、人も大切にすること、そのために命が与えられ、目や手や足も含めた命を、神さまと、自分と、あなたの隣人を大切にするために、使うようにと召されているのです。でもそこから離れてしまうと、その歯車が狂い始めるのです。しかしそれは、神さまがそうさせているのではなくて、人です。神さまから、人が離れてしまうとき、そうなってしまうのではないでしょうか?

 

もう一つの見方があります。それは、手、足、目といったものを切り捨ててしまうこと、あるいは抉り出すということによって、人の命を救おうとする人間の行為も示しているのではないでしょうか?

 

というのは、何かのケガ、病気などによって、片方の手、足、目といったものを、取り除かなければ、命がないという場合もあるからです。その際、その行為を誰がするのかというと、ほとんどが病院で医師の手でなされていきます。もちろん両手、両足、両目がある方が当然いいです。でもそのままにしていたら、いのちの危険があるとき、それは切り取られ、切り捨てられ、自分自身から切り離さなければなりません。それをするのも資格を持ったその人の、その手でなされていきます。目で見て、どこをそのように切り取るか、切り捨てるかということを、人である、人間がします。

 

しかしそうすることで、命が助からないこともありますし、命が、助かったとしても、切り取られ、切り捨てられたことによって、その人は、それで何不自由なく、幸せに生活できるかというと、命は助かっても、切り捨てられたことで、それからの生活、営みには、本当に大きな痛みと不自由さが残されていくのではないでしょうか?

 

そのように、人がすること、人がこの行為をすることによって、とんでもない方向に進むときもあれば、命を助けようとしてしたことであっても、全てが何不自由なく、いい結果になるのかというと、全部がいいとは、限らないということです。どんなに、これがいいと思って判断して、この手、足、目を使って精一杯のことをしたとしても、結果から言えば、完全に良くなったとは言い切れないこともあるんです。つまり、人がすること、人がしてしまうことには、それがどんなにいいと思っていることであっても、どんなに命を守ろう、命を支えようとしても、完全ではないのです。できないことがあるのです。まして、命を完全に守り、支え、そして救うことができるかというと、人が人を完全に助け、守り、そして救うことは、そもそも限界があります。

 

だからこそ、人にはできないことも、神さまにはできる!という、神さまであるイエスさまを頼るしかないのではないでしょうか?人が精一杯、知恵を尽くして、力を尽くしても、そして火の中に落ちて、焼かれるようなところを通らされても、イエスさまは、あなたの神さまであることは変わりません。見放したり、放っておかれる神さまではありません。どんな時も、神さまは、見放さず、受け入れ続けてくださっています。

 

そのことに気づかせ、与えるために、火の中に落ちるのです。火の中に落ちたら、火で焼かれてしまうと感じます。でも火で焼かれたとか、焼かれて何もなくなったとはおっしゃっていないのです。むしろ火で、塩味が付けられるというのです。それは、厳しく辛い所を通らされることによって、人にはできないけれども、神さまにはできるとおっしゃっている、イエスさまが救ってくださること、人にはできないけれども、イエスさまにはできること、を、火ですべてが灰燼に帰すということではなくて、火によって、取り除かれ、切り捨てられることによって、与えられるものがあるからではないでしょうか?

 

野焼きと呼ばれるものがありますね。それは、作物を植え始まる前に田畑に火を入れて、畑に残っている収穫物の残り、それを収穫残渣(しゅうかく・ざんさ)と呼ばれているものや、枯れている雑草などを燃やす作業のことです。

畑に残った、または枯れた雑草は、そのままになっていると腐って分解されていくのですが、これは畑の土の中にいる微生物の働きでそうなります。その時、微生物は、土の中にある窒素を栄養として消費するので、それがたくさん残っていると、それだけ微生物がたくさん働くことになるので、土の中の窒素も消費され、少なくなります。

そうなると、野菜を育てるうえで大切な要素の一つ、窒素が土の中からなくなってしまい、野菜をうまく育てることができなくなります。

そのために、野焼きをして枯れ草を燃やし、土の中の微生物がたくさん働かなくてもよい環境に整えてやるわけです。そして雑草が燃えると炭になりますから、栄養素として土の中に溶け込みやすくなっていきます。まさに塩が溶けて塩の味が食べる物に、しみこんでいくことと同じです。

さらには、雑草が長い間畑に残っていると、病害虫の巣となることで、野焼きという、焼くということにより、病害虫の発生を未然に防ぎ、あるいは病害虫がすでにいても死滅させることにつながります。

 

イエスさまの、火で、塩味が付けられるということは、そういうことです。このことを、私たちに当てはめる時、火の中にあること自身は、大変なことですし、火によって焼かれる立場に立つことになりますから、たまったものじゃありません。それは、実際に焼かれるだけのことではなくて、自身を焼かれるような、厳しく辛い経験もそれにあたるのかもしれません。

 

それは、実際にあった手、足、目という体の一部が切り取られるだけではなくて、今まで与えられていたことが、切り取られ、切り捨てられること、今まであったものが失われるということ、でもあるでしょう。しかしそれは望んでいることでは決してありません。五体満足でずっと、元気でいたいということや、今まで与えられ、支えられていたものが、失われることは、いやなことですし、避けたいと思うことです。でもそうされることによって、その後の作物が、豊かに育つことができるようにするためだったように、私たちからもまた、余計なものが取り除かれ、本当になくてはならない、必要なものが残され、溶け込み、より豊かにするためだったという、神さまがして下さったことの意味がよりよく分かってくるのではないでしょうか?

 

それを分からせていただいた時、いろいろあっても、いろいろあったけれども、心に平和、平安が与えられていきます。お互いに与えられていきます。そういう意味で、平和というのは、ぼんと平和ということが、与えられて平和となるのではなくて、平和を妨げるものが、取り除かれて初めて、神さまと私、私と共にいるその人、お互いに平和になるのではないでしょうか?

説教要旨(8月14日)