2022年7月3日礼拝 説教要旨

決して無駄にはならない(マルコ6:1~13)

松田聖一牧師

 

明治に生まれた詩人の一人である室生犀星という方がいます。その中の詩、小景異情―の中に、こう歌われています。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

この詩は青年の犀星が、故郷・金沢の地に居ながら、書いたものです。その故郷にいながらも、ふるさとは遠くにあって思うものだ、東京で物乞いの生活になったとしても、帰るところじゃないという思いでいます。そこには、犀星自身のいろいろな事情で、故郷では歓迎されず、受け入れてもらえない事情がありました。それゆえに自分が東京にいて故郷を思い感傷にひたっている姿を、ありありと思い浮がべながらも、現実には故郷金沢にいて、遠い東京に帰りたいと、強く強く願う詩です。

 

そのように、故郷はどなたにもあります。生まれ育った場所があります。そこには小さい頃から知ってくださっている方々、家族、親戚といった方々がいます。しかし、その故郷はわたしのふるさとでありながらも、何かの事情で、歓迎されず、受け入れてもらえないことがあると、自分の故郷にいながらも、自分が帰れる場所はどこにもない、故郷なのに、故郷はわたしを受け入れてくれなかった、ということになります。と同時に、帰る所じゃない、帰る所じゃなくなったとなりながらも、わたしの故郷はどこか?とわたしの故郷を、探して、求めていくのではないでしょうか?

 

イエスさまもそうです。故郷ナザレにお帰りになった時、歓迎されなかったどころか、むしろ侮辱され、故郷で傷つくのです。そのことをイエスさまに従った、弟子たちは察していたでしょう。というのは、故郷に帰られたイエスさまに、素直に弟子たちも従ったというのではなくて、「故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った」、すなわち、そして従ったのではなくて、お帰りになった「が」、弟子たちも従ったとあるからです。案の定、故郷では、会堂で教え始められたイエスさまのことを、「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか、姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と多くの人々が言っている意味は、イエスさまが、マリアの息子であること、ヤコブ、ヨセと言った兄弟たちと同じ兄弟であると、認めているのではなくて、むしろイエスさまを大工ではない、マリアの息子でもない、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟でもない、ということを、事実として断言的に「そうではない!」とはっきりと、否定している言葉なのです。

 

こんな言葉は、ひどい言葉です。イエスさまが故郷ナザレでヨセフ亡き後、大工として家族を支えていたのに、実際に故郷でマリア、ヤコブ、ヨセ、シモンや、親戚の中で育ったという事実があっても、大工ではない、本当の息子でない、ヤコブたちの本当の兄弟ではないと、故郷に帰って来たイエスさまに向かって、浴びせていくのですから、ひどい言葉です。

 

しかし一方で、言われていることは確かに事実ですし、その通りです。イエスさまは神さまによって、マリアより生まれ、ヨセフとマリアの家族に、生まれ、与えられたまことの人であり、まことの神さまです。でも人々のその言葉は、イエスさまがまことの神さまであるから、まことの人として生まれたというところから出た言葉ではなくて、ただイエスさまを、否定する、イエスさまを全部否定しようとするのです。それはイエスさまに対しても、そして家族にとっても、屈辱的ではないでしょうか?イエスさまを家族の一員として共に過ごしてきたのに、大工ではない、マリアは母ではない、ヤコブたちも、兄弟ではないと、イエスさまを全て、丸ごと否定されたら、イエスさまも、マリアも、兄弟たちも、それをここ故郷でどう受け取っていけばいいのでしょうか?どこに持っていけばいいのでしょうか?

 

しかしイエスさまは、言われたことを、そのまま受け取っていかれるのです。だから「自分の故郷、親戚や家族の間だけで尊敬されない」、侮辱されるということをおっしゃいますが、それは、神さまとして、人が人として生まれ、育ち、故郷、家族との関係の中で、そうではない!と全部否定されることを、人としても全部受け取るためです。息子ではない!家族ではない!兄弟ではない!あなたの故郷はここじゃない!という自分が自分でなくなるようなことまでも、イエスさまは人でありながらも、神さまとして全部、人からの全否定を全部受け取ってくださるのです。そこに立っていて下さるからこそ、人として否定されたこと、自分の居場所はここにはないという全否定も、何かも経験されているからこそ、わたしたちが味わう否定、そうではない!ということがどういうことであるのか?どれほど傷ついているか?ということも分かっていてくださるのです。そこに立って、共にいてくださるイエスさまだから、わたしはあなたと共にいるとおっしゃってくださる時、それはあなたのこと、分かっているよ~という思いで、共にいて、寄り添い、近くにいて、支えていてくださるのです。

 

ではそれで続きはないのかというと、それだけで終わりません。「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけであって、そのほかは何も奇跡をおこなうことがおできにならなかった。」とありますが、その故郷で、何もできなかったのではなくて、ごくわずかであっても、病気の方々に手を置いていやすことができたのです。

 

イエスさまは、故郷でも、本当はもっと多くの方々に、いろんなことをしたかったと思います。でもそれはできなかったけれども、それでも癒された、ごくわずかの病人の方々がいたということは、その方々にとっては、イエスさまが故郷に来て下さったことで、癒され、人生を変えられていくのです。そしてその故郷では十分にはできなかったけれども、そのことがあったからこそ、イエスさまは「付近の村を巡り歩いてお教えになった」故郷から遠く離れず、近くの村を巡り歩いて、神さまのことを教えていかれるのです。それによってそこに住む村の人たちは、神さまのことを聞くことになるのです。

 

これらのことから言えるのは、イエスさまは、与えられた働きを充分にはできなかったとしても、たとえわずかであっても、癒された方々にとっては、素晴らしい出来事であったし、故郷では受け入れられなかったことによって、近くの村に巡り歩くことになり、そこで神さまのことを聞くことができた村の人たちが与えられていくのです。つまり神さまとしてのイエスさまの働きには、わずかな結果であっても、それで人生変えられていく人が与えられたという点では、その人たちにとって、また村の人にとっても福音が届けられたすごい出来事になっていくのです。

 

その上で、(7)そして、12人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた。

 

ということは、イエスさまは故郷から近くの村を巡り歩いてお教えになった時は、弟子たちは故郷にいます。それからイエスさまは、近くの村を巡り歩いて神さまのことを教えている中で、弟子たちを自分の周りに呼び寄せて、神さまの働きにつく際に、必要なものをすべて与えていかれるのです。その時持っていく持ち物については「杖一本の他何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着が二枚着てはならない」と言われた。」ということですが、このポイントは、何も持つなというよりも、何も持たないこと、何も持てない時があるということ、そこには持っていたものを失うということもあるということと、そこで、旅を行く時、人生という旅と言ってもいいでしょう。その人生の旅路に、神さまが、必要なものは、全部過不足なく与えて下さるということです。多すぎることなく、また少なすぎることなく、必要なものを、その時々に与えて下さるのです。与えられるということを本当に実感として、受け取れるように、そしてそれを一人ずつで経験するのではなくて、二人ずつ組みにして下さる中で、二人でそのことを経験させてくださるのです。

 

なぜイエスさまが12人の弟子たちを2人ずつ組みにして遣わすことにされたのか?いろいろ言えると思います。まずは何かあった時に、一人じゃなくて二人というのは、大きい力になるからです。一人だけだと何か問題にぶつかった時には、一人で何もかもを考えなければなりませんし、動かなければなりません。

 

熱を出して、風邪を引いてしまった時、一人だと、しんどくても自分で動かなければなりませんよね。それは大変なことです。だれかがそばにいてくれたら、それだけで安心しますし、かりに傍にはいなくても、何かあったらすぐに飛んできてくれる方があれば、それも安心ですし、具体的に助けになってくれます。気持ちの上でもそうです。壁にぶつかった時、自分が、問題にまきこまれた時、一人だけだと袋小路になって、行き場を失いかねません。でも二人いたら、誰かに相談したり、誰かに気持ちを話せたら、違いますよね。そういうことが、これから先の歩みにあるということを、ご存じだからこそ、イエスさまは弟子たちを二人組にされて遣わすことにされたのです。

 

そしてその二人組というもともとの言葉は、二人の上へ、二人の上に向かってということと、二人の上にくだってという意味です。つまり、その二人をイエスさまが遣わされる時、二人だけを遣わすだけではなくて、二人の上へ、二人の上にくだって、遣わすのです。それは上にあるもの、すなわち神さまであるイエスさまが、二人を遣わされる時、二人の上へ下ってくださり、そして二人の上に向かってくだられたイエスさまが、二人を遣わされるのです。ということは、二人を遣わす時には、二人だけじゃないです。主が二人の上にくだって、そして共にいてくださるのです。それは二人に対してだけでなくて、一人であっても、その一人の上にくだってくださる主が、共にいてくださるのです。だから二人であっても、一人であっても、神さまが本当に共にいてくださるから、二人だけ、一人だけにはならないのです。

 

そして遣わされたその先々で、本当にいろいろな経験をします。歓迎されたり、拒否されたりと、いろいろがあります。悲しいこと、悔しいこと、辛いこと、うれしいことも二人で受け取れたら、悲しいといったことは、二分の一になるし、うれしいことは二倍になります。そういう意味でイエスさまは、一人が大切だからこそ、その一人を大切にするために、二人組にもされるのです。そして二人で、神さまの働きに遣わしてくださるのです。

 

そして二人で出会い、味わういろいろなことの中で、うまくいかなかったこと、あれは無駄だったのではないかと感じてしまうことがあったとしても、イエスさまは、どんなにあれは~と思うようなことがあったとしても、それらのことは共にいてくださるお方の手によって、決して無駄にはされないのです。どんなことも、無駄だと受け取ってしまうことでも、イエスさまは、決して無駄にはならないことへと新しく造りかえて、与えて下さるのです。

 

昨年のクリスマス前に、チラシを作っていただいて、それを新聞折込にしようということで、5000枚くらいだったと思いますが、新聞折込チラシとして入れることが出来ました。そのクリスマスのチラシを見て、教会に初めて来られた方がいらっしゃったことを思います。数字で比べたら、5000枚の千分の一に満たない割合であると言えます。それだけ見たら5000枚に対してわずかです。でもたといわずかであったとしても、クリスマスのお知らせが届けられたのでした。では残りの、4千数百枚は無駄になったのか?というと、決してそうではないですね。それらのものが、届けられました。チラシを種と置き替えれば、種は、確かに蒔かれたのです。それがいつ、どこで、どのように芽を出すか?それは誰にもわかりません。イエスさましか分かりません。でもどういう結果であったとしても、その結果だけで、終わらないのです。その後に、続きがあるのです。それはチラシだけではなくて、すべてのことにそうです。どんなこともそうです。その結果だけでは終わらないのです。その後に続くのです。

 

それを二人で共にいただく時、イエスさまが共にいて、イエスさまが傍に呼び寄せて、招いてくださっていること、イエスさまがどんなときにも、わたしの事を分かっていて下さることが、その人それぞれに与えられていきます。そしてそれを共に主から受けとって、共に悲しみ、共に喜ぶという出会いと恵みを与えてくださるのです。

 

そういう意味で教会というのは、そういう出会いと繋がりの場でもありますね。一人でだけ、ではなくて、二人だけでもなくて、そこにおられ、共にイエスさまが受け取ってくださるところです。一人じゃないということを、イエスさまも一緒に受け取っておられることを、お互いに受け取れるところです。そこに、イエスさまは招いてくださっているのです。

説教要旨(7月3日)