2022年5月1日礼拝 説教要旨

聞き分けるということ(ヨハネ10:7~18)

松田聖一牧師

分けるということをしますね。その分け方も様々ですが、これとこれとを分けていくことで、これはわたしのもの、これはあなたのものといったことに分けられていきます。例えば、ミカン1つを分けていくと、同じミカンを分け合うことで、ミカンだけでなく、気持ちも分かち合え、気持ちが豊かになりますし、よりつながりができます。それが分けるということであり、分離ということです。

 

その一方で、分けるということを通して、それぞれの所有がはっきりしていきます。これはわたしのもの、これはあなたのものと分けられていきます。わたしとあなたとを分けていくことにもなります。しかしそれだけでとどまらないことが多いです。そこに欲望が入ってしまうからです。そうなると、これはわたしの、これはあなたの・・・とお互いを分けるだけではなく、あなたのものを、わたしのものにしたい、あなたのものはわたしのものという意識となり、所有権争いにも繋がりかねません。それが高じてけんかになること、あるいは戦争もそうです。戦争とは、土地の所有権をめぐる争いから起こる事が多いですが、その前提として分けること、分離することであり、そこに欲望をつけてしまう人間がいて、もっと欲しいもっと欲しいという欲望によって、奪い合うということになり、争いにつながるのです。

 

ファリサイ派と呼ばれる人たちの意味は分けるとか、分離するという意味です。元々は神さまが、神さまのお恵みによって、神さまを信じて、従う者として選び分けて下さり、そのことへの感謝から、神さまが願うことを行うように、人々のために、お手伝いするようにと導いてくださった人々です。ところが、いつしかそこに欲望が入り、特別に選ばれたのだから、わたしたちとあなたたちとは違う、別格であり、特権であるという意識、特別だという意識が生まれていき、わたしたちとあなたとは違うんだ、わたしたちだけが特別なんだ~という分離に繋がっていくのです。でもそれは神さまが願ったことではなく、本来は神さまのお恵みに応えて、人々に神さまのお恵みと伝え、表すためであったはずなのに、人が欲望をその中に、入れてしまったことによって、わたしとあなたとは別だという意識で、人と分けてしまうことになったので、ファリサイ派と呼ばれるのです。でも彼らには神さまが、神さまの目的と願いをもって分けてくださった、というところに欲望を入れているとか、欲望に駆られているということに、気づいているかというと、分からないでいます。

 

だからイエスさまが全ての羊を導くという意味が分からなかったのでしょう。わたしたちだけが特別、と言う生き方にずっと固まっているので、他の人たちを受け付けなくなり、受け入れられなくなってしまっているのではないでしょうか?その姿をイエスさまは、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」盗人であり、強盗だと語るのです。それは彼らが、何かを取ったとか、盗んだとか、本当に強盗をしたという、具体的に法に触れるようなことをしたというよりも、盗人、強盗の根っこにある「わたしより前に」という言葉を通して表しておられるのです。つまり「わたしより前に」という、この言葉はイエスさまよりも、先走ってと言う意味ではなくて、重要性において、イエスさまよりもまず第一にとか、イエスさまよりも先にという意味です。つまりイエスさまよりも、そしてイエスさまが語られたこと、イエスさまの言葉よりも、またその言葉に込められたイエスさまの思い、願い、目的よりも、自分たちの何か、あるいは自分自身をまず第一にし、優先させているからです。

 

そのことを羊との関係でイエスさまはおっしゃっていかれるのです。その根底にあるのは、羊を、羊そのものを、大切にしているかどうか?羊を自分にとって重要な、なくてはならない羊として受け入れているか?ということです。そしてその羊は、囲いの中に在ろうが、なかろうが、変わることなく大切にしているか?ということです。

 

でも欲望がイエスさまではないところにあると、羊を大切にするのではなくて、羊を盗む対象とし、盗んでそれをどこかに売り払ったり、あるいは屠って食べるという対象にしかなっていかないのです。あるいは羊を持たない雇い人に譬えて、その羊を確かに世話はするけれども、その羊そのものが大切だから、そうしているのではなくて、ただ単に仕事として、その世話をする労働の対価、賃金として受け取れるから、お金をもらえることで羊とつながっているだけです。つまり、羊の世話をしたいということではなく、羊を大切にしたいということでもなくて、ただお金をもらえれば、賃金を支払ってもらえればそれでいい、というお金で繋がっているだけです。羊そのものが大切だからではない、お金がもらえることを大切にし、それを優先させているからです。ですから、「狼が来るのを見ると」狼が襲ってきたわけではなくて、狼が来るのを見るだけで、羊を置き去りにして逃げるのです。置き去りにして、逃げてしまうから、狼は羊を奪い、また追い散らすのです。

 

でもそれはイエスさまの目的ではありません。イエスさまは羊との関係において、何とおっしゃっているか?というと、その「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」だということと、「自分の羊を知っている」こと、「羊もわたしを知っている」こと、羊のために命を捨てるほどに、羊を大切にしていること、囲いに入っていない、こっちとあっちと分けられている羊であっても、導かなければならないこと、その羊も私の声を聞き分けるということ、それがイエスさまのおっしゃっていることです。つまりイエスさまは、どんな羊であっても、自分にとってなくてはならない、大切な羊として、どんな羊であっても、どこにいても、守り続けようとしておられるのです。

 

その中心はお金ではありません。お金をもっと欲しいという欲望でもありません。羊をお金と同じように見ているのではありません。ただその羊が大切だから、なくてはならない羊だということだけであり、その羊が豊かに命を受けられること、その羊が幸せになってほしいというそのことだけです。

 

この羊との関係は、イエスさまとの人との関係、私と私の関係、そして私と人との関係、人と人との関係も同じです。

 

私たちは、いろいろな時に出会いを与えられました。その出会いはすべて神さまから与えられた出会いです。その神さまから与えられた出会いを、人との出会いを、どう受け取っているのでしょうか?その人が豊かにされること、その人が幸せになること、その人が幸せになれるように大切にしているかというと、どうでしょうか?時には人をもののように、人を自分の欲望の赴くままに、欲望の対象にまでしてしまい、自分を優先させ、自分だけのことを思い、自分だけが利益を得るということが、ついついそうなってしまうことはないでしょうか?

 

その姿が、門であるイエスさまを通って入る人、救われると約束されている人が、「門を出入り」するということです。この「門を出入りして」という意味は、イエスさまという門に入っていくことと、同時にイエスさまという門から出ていくこと、出かける事、立ち去ることという両方があるという意味で、出入りしてということなのです。

 

つまりひとたびイエスさまに導かれ、イエスさまに大切にされ、命を捨てるほどに愛してくださっているイエスさまに導かれ、これまでの生き方から、イエスさまを信頼していいんだという、イエスさまを信頼できる恵みと、イエスさまが私を愛し、救ってくださったという生き方から、出たり入ったりすることがあるということです。つまり、イエスさまに導かれたから、もうあとは何も起こらず大丈夫ということではなくて、出たり入ったりするということがあり、イエスさまに向かってイエスさまと言う門に向かっていく時もあれば、イエスさまから立ち去り、イエスさまから出ていくこともあるということです。そこにはいろいろな事情があったでしょうし、立ち去ったままになっていることもあるかもしれません。

 

でもイエスさまは、そういうことをありながらも、そして、「牧草を見つける」と約束されるのです。牧草をその人は見つけるのです。牧草が見つかるのです。そしてその牧草で命を得、牧草で安らぎを得、牧草の上で、癒されていくのです。それは神さまの牧場にある牧草だからです。神さまの牧場に招かれ、神さまの牧場で、神さまと共に、安らぎを得、神さまが一緒にいてくださるから、神さまからの平安、揺るぐことのない安心が与えられていくのです。それは一言、あなたは生きていていいんだ!です。あなたは神さまが与えて下さる牧場で、与えられる牧草で、命を得、あなたはあなたで生きることができるのです。

 

ふうけもんという漫画があります。このふうけもんに出て来る一人のおじさんは、若いころ、やくざの道に入り、毎日やさぐれ、東京の街中に出て、けんかを繰り返していました。親を泣かせ、飛び出し、悪の世界にはまっていきました。しかしそんな彼でしたが、夜一人になると、布団の上で、虚しさを覚え、行く道を捜していました。どう生きていけばいいのか?何のために生きればいいのか?そんなことを自問自答しながらも、やさぐれていたその時、一枚のチラシを一人の宣教師から受け取りました。受け取ってすぐに捨てようと思いましたが、その宣教師の分け隔てすることのない姿、その笑顔、喜びにあふれたその姿を見て、この人には何かがあると感じました。それでチラシに目をやりますと、それはある場所で、キリスト教の集会があるということでした。それで興味半分で、そこに出かけていきました。聖書からのメッセージが語られていましたが、さっぱりわからず、眠くなるばかりでした。ところがそのメッセージの最後に、語っていた方が当時高価だった1000円札を出してこう言いました。「みなさん!イエスさまはあなたを愛しています。どんなときにも、どんな中にあっても、イエスさまはあなたを、命をかけて愛しておられます!ぜひこのイエスさまを受け取ってみませんか?信じて受け取ってみませんか?」そして会場に向かって呼びかけました。この1000円が欲しい方は、どうぞここに来てください。差し上げます!そう声を挙げた時、一人の女の子がはい!と手を挙げて、壇上に上がりました。するとその先生は、はい、これをあなたに差し上げます!そして嬉しそうにしながら、喜んで座席に戻って行かれました。

 

その後、続けてこうおっしゃられたのでした。信じるというのは、差し出されたものを、ただ受け取ることです。イエスさまを信じてみたいと思われた方は、ぜひイエスさまを受け取ってください。

 

その姿に彼は心を動かされていました。分かったんですね。そうか~イエスさまを信じるというのは、ただイエスさまを受け取るだけなんだ~あの宣教師の笑顔、分け隔てのない喜びの笑顔は、イエスさまから与えられたものなんだと。そしてその日、彼はイエスさまを信じました。でもそれからが大変でした。やくざから足を洗うために、事務所に行きました。なんだと~やくざを止める~と、激しくどなられ、指を詰めろとまで言われましたが、トップの方がそのままで足を洗うことを赦してくれたのでした。そして最後にひと言こう言われたのでした。「行け!もう二度とここに戻ってくるなよ~」それから今日までこのおじさんは、いろいろなことがあったけれども、イエスさまを信じるとは、ただ受け取るだけだ~ということから離れることはありませんでした。僕みたいなふらふらと過ごしてきたけれど、イエスさまは僕を見放さなかった~いつも共にいて、行きつ戻りつする僕を大切にしてくださっていたんだ~とおっしゃっていました。

 

イエスさまを信じるとは、私を命をかけ、命を捨てるほどに愛し、大切にしてくださったイエスさまを、ただ受け取ることです。ただでいただけます。ただで与えられます。その時、ただより怖いものはないと思わなくてもいいのです。後で何かお返しをいなければいけないと思わなくてもいいのです。信仰とは、ただ差し出されたもの、イエスさまを受け取れば、それでいいのです。

 

そんなイエスさまと言う門を一回だけでもいいのです。一度だけであとはまだでもいいのです。ひとたび通ったその人は、出たり入ったりを繰り返しながらも、牧草を見つけるのです。牧草を見つけ、生きることができるのです。命が与えられていくのです。

 

なぜならば出入りする人のためにも命を捨てて下さるほどに大切にされ、愛されたイエスさまは、人を2つに分けるのではなく、1つにするために、一人のイエスさまに導かれた1つの群れにしておられるからです。

説教要旨(5月1日)