2022年3月27日礼拝 説教要旨
誰のために(マルコ9:2~10)
松田聖一牧師
ある幼稚園でのことです。通ってくる子どもたちの中で、一人の子はいつも砂場に行って遊ぶのが日課でした。その日も幼稚園に来るなり、先生に言いました。「先生、お砂場で遊ぼ~」「はい~お砂場ね~」と砂場で楽しそうに遊んでいきました。幼稚園には、保育園や小学校もそうですが、砂場がありますね。そこで子どもたちは思い思いに遊びます。砂を集めて山を作る子、砂場でままごとをする子、他にもいろいろ作ります。砂場は本当に豊かな世界です。でも不思議ですね。いろいろとつくっているものは、全部砂で作られています。砂ですから、もちろん食べられません。しかしそこで、子どもたちは、いろいろなことを想像しながら、本当に山が、お料理が、お団子がそこにあるかのように生き生きと作り始めます。そして「はいご飯が出来た~卵焼きが出来た~」とか、「大きな山ができた~ここにトンネルを掘って~」とか、「おいしいお団子どうぞ~」とか、子どもたちは目をキラキラさせながら、そこに本物がある!と思っています。そしてその砂を使って、作り手である子どもたちは、その砂から最初は砂でしかなかったものから、ご飯や、卵焼きや、大きな山、トンネルといった形あるものを作り上げていき、それが形になります。そしてその形には、作り手である子どもたちの思いが込められ、喜びがあふれています。形になるというのは、そういうことですね。最初は形になっていなかったのが、作り手によって形になっていくのです。
イエスさまがペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた時の姿が変わられたというのも、それとよく似ています。それはイエスさまの姿が「変わり」と言う言葉に、形あるものになっていくとか、形になるとか、形作られるという意味があるからです。つまりイエスさまの姿変わりとは、それまで形がなかったのに、形になったということです。その意味は、イエスさまの神さまとしての存在がなくて、この時、ぼこっと神さまという形になったということではなくて、イエスさまが最初から神さまであられるということが、ここで形になったという意味です。
その姿は「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」という姿ですから、想像できないほどに真っ白だということです。イエスさまが光り輝いて、直視できないほどの姿だったのでしょうか?その真っ白に輝いているその姿は、私たちの経験も想像もはるかに越えていますから、十分に言い表せる言葉、的を得た言葉で表現することができないほどです。しかし私たちの言葉で表現できない、そういう姿であるからこそ、イエスさまがこの時、「聖なる神さまである」ことを、イエスさまご自身が、神さまによって顕されたということなのです。ということはこの3人の目の前で、イエスさまは本当に神さまだ!ということを顕されたわけですから、彼らにとっては本当に神さまがいらっしゃるということを、目の当たりにしたのです。
それは彼らに大きな衝撃を与えたことでしょう。では私たちにそういう出会いが与えられるかというと、何か超越したような出会いというよりも、人も含めたいろいろな出会いを通して、そして聖書の言葉を通して与えられるということであると言えるのではないでしょうか?
十戒も含めて聖書のこと、キリスト教について教えてくださった先生から学んだことを思い起こします。その学びの最初の日、十戒の前書きである「わたしはあなたの神、主である」ということを学んだとき、先生が、神さまは、あなたの神さまですよ!あなたと関係あるお方ですよ!その神さまが、今、わたしはあなたの神だ!と神さまの方からおっしゃってくださり、神さまの方から、私たちに向けて神さまであること、それも遠く離れた関係ではなくて、あなたの神だ!あなたにとっての神さまであるということを熱く語られた瞬間に、衝撃が走りました。「わたしは、あなたの神、主である」この言葉に圧倒されたのでした。それまで十戒と言うのは、あれこれするな、という禁止ずくめ、あれをするな、これをするな、のがんじがらめと思っていました。でもそうではなくて、神さまがあなたの神さまだということを分かるように、神さまが十戒を通して顕してくださっていることに初めて気づいたことでした。それ以降、十戒が本当に神さまの大きな愛と、いつも神さまが、わたしはあなたの神、主だということを学び確認するたびごとに、この最初の学びのひとときを思い起こします。そして本当にうれしくなります。「わたしはあなたの神、主である。」が、この心に響いてくるのです。
そういう出会いとはもちろんこの光景とは異なりますが、3人の弟子たちはイエスさまが神さまだ!と言う出来事に出会った時、心揺さぶられ、心が燃え、うれしくなったと思います。
その中で、さらにエリヤとモーセと共に現れて、イエスと語り合っていたという姿が展開します。エリヤ、モーセはそれぞれ旧約聖書における預言者であり、大人物です。もうなくなっているはずのエリヤとモーセがイエスさまと語り合っている姿は、素晴らしいということを遥かに越えていたと思います。
その時に、ペテロが口をはさんで言った言葉は「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を3つ建てましょう。1つはあなたのため、1つはモーセのため、もう1つはエリヤのためです。」です。この口をはさんでの、この言葉から大きく2つのことが言えます。
1つ目は、ペテロはどう言っていいか分からなかった中で、私たちは建てましょうという動機は、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」です。つまり、ペテロたち3人が、わたしたちがここにいること、この素晴らしいところに光景の場に、わたしたちが、いるということに素晴らしい、満足しているということなのです。それは単純にうれしかったからですし、この光景をいつまでも見たい、この光景の場にいつまでもいたかったからでしょう。
しかし、ペテロのこの言葉から言えることは、他の9人の弟子たちのことは頭から抜けているということです。ということは、見方を変えれば、自分たちだけがここにいたらそれでいい!自分たちだけが、この光景を見ることができたら、それでいいという言葉となっているのではないでしょうか?他の人たちの事を考えているのであれば、他の弟子たちもここに呼びましょうとか、弟子たちだけではなくて、もっとたくさんの方々に来て、イエスさまが本当に神さまでいらっしゃることを、この目で確かめてもらったらどうでしょうかと言う言葉が出てきていいわけです。でもそれはここにはないのです。
それでは、わたしたちが、ここにいたらそれで十分ということで、本当にいいのでしょうか?私たち3人が、ここにいたら、それで満足していていいのでしょうか?そうじゃないですよね。イエスさまが神さまであられるということは、イエスさまにとって、イエスさまをして神さまが、全ての人にこのことを明らかにされることです。わたしはあなたの神、主であるということは、限られた方にとっての言葉ではなくて、全ての人に語られ、全ての人に与えられるものです。でもここではわたしたちが、ここにいるのは素晴らしいことです、なのです。
2つ目は、そのために3つの仮小屋を建てましょう、わたしたちは建てましょう「1つはあなたのため、1つはモーセのため、もう1つはエリヤのためです」とペテロは言っていますが、本当にイエスさまのために1つ、モーセのために1つ、エリヤのために1つ建てられるもの、材料、技術などを手元に持っているのでしょうか?というのは、仮小屋とは、天幕のことです。この天幕とは、エジプトを脱出し、荒れ野を旅するイスラエルの民が、神さまを礼拝するために、旅をしながら、持ち運べるように組み立てていけるものです。テントですが、その大きさたるや、高さ4,5メートル、奥行き13,5メートル、間口4,5メートルであり、その材料も、大変高価なものであり、木材も使われていますから、乾燥地帯で本当に貴重な木材をどこで調達するのでしょうか?しかもその天幕には、こまかな刺繍、装飾がいたるところに施されていますから、本物が今あればとんでもなくすごいものです。そういう天幕を1つだけではなくて、3つ建てましょう。私たちが建てましょうという時、3人で3つの天幕ということになりますから、どうやってそれをこしらえるのかということになります。大きさだけではなくて、刺繍など、ペテロたちはできたのか?漁師さんが刺繍をすることができるのか?というと、出来る姿は想像しにくいです。ということは、出来ることを言っているのではなくて、出来ないのに建てましょうと言っているのではないでしょうか?できないのに、できると思っているのです。どういえばよいか分からなかったのは確かです。でもできもしないことを、やりましょうと言ってしまうのは、私たちは建てましょうと言いながら、どこかで自分たちの建てましょうということを代わりにしてくれる人を期待し、そこにもたれかかっているのではないでしょうか?
でも自分たちが建てましょうというんです。でも実際には他にやってくれる人がいないとできないことなのに、私たちが建てましょうというのは、矛盾しています。
それは、身近なことにもあるのではないでしょうか?自分たちだけがいいところにいたらそれでいいとか、自分たちではできないのに、私たちがやりましょうと言ってしまうこと、誰かがしないといけないのに、その誰かが、と言う誰かの中には、自分が入っていないのです。私以外の誰かが、私のためにしてくれると思っていたら、人にやらせているわけですから、それは私たちが・・ということとが違うことを言っています。でもそういう矛盾がありながら、出来ないのに、それでも私たちがやりましょう、私たちがやりますと言ってしまうことがあるのではないでしょうか?できないのに、出来るかのごとくに、やりましょうと言ってしまうと、言ったことを実現しようとすれば、言った人以外の人にしわ寄せと言いますか、背負うことになってしまうのです。できないのであれば、できないと言えばいいです。私たちはできませんから、どうかやってくれませんかと言った方が正直でいいですよね。
そんな中で、わたしたちが建てましょうと言った、3つをイエスさまのために、モーセのために、エリヤのためにと言った時、言った彼らを『雲が覆』ったのでした。雲とは神さまのことですから、わたしたちが、私たちが、と言っている彼らを、神さまが覆い、神さまが包んでくださったのでした。そしてモーセ、エリヤがそこにいたのに、弟子たちは目を皿のようにして見まわし、探しても、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」のでした。もうモーセも、エリヤもいませんでした。建てましょうと言った、そのモーセのために、エリヤのためにということが、もはや必要なくなってしまったのです。わたしたちが、と言うこと、建てましょうということを、その通りにしなくてもよくなったのです。
ここから言えること、それは目の前から見えなくなること、素晴らしい光景が見えなくなること自体は、残念と言えるかもしれません。しかし、それによってわたしたちが、ということをしなくてもよくなったということだけではなくて、自分たちだけのことを考えていた、その対象がなくなることで、自分たちだけのことを思う、思いを思わなくてもよくしてくださるのです。わたしたちが、と自分たちのことしか考えていた、そういうことを思わなくても済むように、神さまはその光景を消してくださるのです。
その結果本当に必要なものが残されたのです。それは、私たちが、私たちが、ではなくて、私たちを神さまが無条件で愛してくださっていること、神さまに無条件で愛され、赦されていること、その声に包まれること、その出会いに包まれることでした。
アメリカでのお話です。5歳の自閉症でいらした子どもさんがいました。そのためでしょうか。お母さんにも甘えたり、寄り添う事もできませんでした。そのために、お母さんは息子を抱きしめることも、体を洗うことも、寄り添うことも、触ることも思うようにできませんでした。もちろん友達もできませんでした。でもお母さんはその子のために、東奔西走、あっちの医者、こっちの病院など、駆けずり回りました。公園にも連れ出して、何とか友達ができるようにとあれこれしましたが。でも何も変わりませんでした。そんな中で、自閉症の方のためのサービス犬であるトルネードという犬がやってきました。すると初めて出会ったその犬に、その子は、自分の意思でもたれかかっていました。言葉にはできないけれども、心が通じ合っていたのでした。それを目の当たりにしたお母さんはびっくりして、感動して、涙を流しながら、この子が心を開くことができたことを感謝しました。
そのお母さんがこんな言葉を語りました。
公園で友達を作ろうとしても、数えきれないほどの失敗を経験してきた息子。どんな友達もいませんでした。どんなつながりもありませんでした。わたしは家族以外にどんなつながりも作ることができずに、夜に泣いているこの子の隣で座ってきました。どんなに真剣にチャレンジしても、どんなに自閉症の治療に励んでも、友達を作ることはできませんでした。いろんな病院を駆け巡り下されたすべての診断、今まで費やしてきたすべてのお金、何度にもわたる学校での面談、今まで流してきたすべての涙、すべての前進、すべての後退、そして先の見えない不安な将来。でもこの犬にもたれかかったこの光景を見て、私は息子のために奔走してきたすべてが報われたのです。トルネードのおかげですべてがきっとうまくいくと考えられるようになりました。
そういう光景になれたのは、わたしが、わたしが、と必死でしてきたことから離れたところで、一匹の犬が、そこに横たわっていた、それだけです。でもその犬に、その子は寄り添い、寝そべり、この犬に抱きしめられていました。
神さまが愛し、受け入れてくださるというのは、そういうことです。わたしがしましょう。わたしがしなくちゃ、わたしが、わたしが、というわたしから離れたところでであっても、わたしには、どうすることもできないところであっても、無条件で受け入れてくれる神さまが出会ってくださいます。私は私でいいと、無条件で愛し、赦し、包んでくださる神さまに出会えるのです。その時、人は、私はここにいていいんだ、と思いが与えられ、変えられていくのです。
これはわたしの愛する子、これに聞けという神さまからの言葉は、人を包み込み、愛と赦しの中に覆い包んでくださる言葉です。