2022年3月13日礼拝 説教要旨
対峙するということ(マルコ3:20~27)
松田聖一牧師
私たちには、欲望、欲があります。それはただ単にものをあれもほしい、これもほしいというものだけではなくて、欲の中には、支配欲という欲望があります。それは相手を従わせたいという欲望であり、相手を思い通りに動かしたいという欲望であり、相手の行動や考えを縛ることに繋がります。それは人だけでなく物事に対しても、同じことが言えますね。そんな欲望は、表に出るかどうかは別として、誰にでもあるものです。そして支配欲が強くなれば強くなるほど、常に自分が正しいと思っていきますし、自分の意見や考えが常に正しいと思うようになります。どんなときも自分の考えを絶対にしていきますから、相手のその人を無理にでも、自分に従わせようとします。その時の言い方はいろいろです。強引の場合もあるし、優しくやんわりと言いながら、それでも自分に従わせようとすることもあるでしょう。そういう時によくあるのが、相手のその人の迷惑を考えずに「私が正しい方向に導いてあげている」と思い込んでしまっていることもありますし、しかもそう思い込んでいるそのご本人は、これが正しいと思い込んでいますので、自分に対して、反発されるとショックを受けます。思い通りにならないと感じて、感情的にもなってしまいますし、気持ちをコントロールできなくなってもいきます。
ではなぜそうなるのか?その人の中に、不安があるからです。自分に自信がないからです。だから人を支配しようとして、自分の言いなりになってもらおう、自分の言いなりになってくれたら、自分の味方になってもらえた!と受け止められるような状況になれますし、それで自分の自信としたいからです。
そして、そういう支配したいという欲望がどこに向かうか?というと、遠いところにある誰かというよりも、自分の身近にいる人、自分に近い所、自分の傍にいる誰かに対してではないでしょうか?そういう意味で、対峙するというのは、目の前の人、目の前の事柄に対してということではないでしょうか?さらには、自分自身にも向かうことになるのではないでしょうか?自分自身を自分の欲望で支配したいということにも繋がります。
イエスさまを取り押さえに来た人たちもそうです。この人たちは、イエスさまの「身内の人たち」です。この「身内の人たち」と言うのは、イエスさまの傍に、そばにいる人たちと言う意味ですから、その通り、イエスさまから遠く離れたところにいるのではなくて、イエスさまの近くにいる、そばにいる人たちです。そこから身内、家族、親族と言う意味に繋がっていきます。そういう方々ですから、イエスさまを傍で、いつも一緒にいてイエスさまと共に生活し、イエスさまと一緒に遊び、大きくなった人たちであり、それを近くでいつも共にいながら過ごしてくれた家族であり、親族です。でも、その彼らは自分に自信がないのです。不安なのです。それはイエスさまについて「あの男は気が変になっている」と言われていたこと、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などと言っていたことに、イエスさまの身内の人たちは自信を失っているからです。不安になって、イエスさまがそんな人なのか?不安になってしまい、その不安がイエスさまを支配しようとし、イエスさまを取り押さえ、イエスさまがそういう風に言われないように、力でイエスさまを自由にもしようとしているのではないでしょうか?
というのは、身内の人たちにとって、イエスさまが本当に気が変になっているとか、取りつかれているとか、悪霊の頭とか、言われていることは、いたたまれないし、そういうイエスさまに対して、あれこれ言われていることを聞くのは、耐えられないからではないでしょうか?だからそうならないように、イエスさまを力づくで、でも、切り離そうとしているのではないでしょうか?身内にとっては、イエスさまも大切な家族の一員だから、そんなひどいこと、人格否定されるようなことを言われないように、イエスさまはそこから切り離そう、自由にもしようとしたのではないでしょうか?それはある意味で、身内の人たちの親切心でもあるかもしれません。親心と言いますか、自分たちはイエスさまをそんなところから自由にしようとしているんだという、親切心からの行動でもあるのではないでしょうか?
そういう思いは、内面のことです。内面のことと言うのは、表にはなかなか出ませんし、仮に言葉で伝えようとしても、相手に十分に伝えられるかというと、どんなに伝えようとしても十分には伝わらないものでもあります。
心の中はどうなっていますか?と尋ねられたとき、私はこう思うといった自分の気持ちを言葉で伝えようとしますね。でもいくら言葉で説明しようとしても、説明しつくせないし、私の思いを、相手にどれだけ伝えても、分かってもらえないこともあります。反対に、自分の思いを言葉で伝えたくないということもあるでしょう。言葉にすることさえはばかれること、言葉にできないこともあるからです。
そのように「言葉にできない」こと、心で思っていることを全部言葉にできるかというと、出来ないことが多いです。しかし思いはあります。その思いを、言葉にできない中で、どうするかということになると、それは自分の思いの中で、言葉にならなくても、ああでもない、こうでもないと内弁慶的な、自分の内側であれこれとなっていくのではないでしょうか?不安や自信がないということも、そうです。その内側で、あれこれと考えていくとき、内側で、自分の不安や自信のなさに向き合い、対峙しようとすると、自分の中でのことになりますから、なぜ不安になるのか?なぜ自信がないのか?ということが、自分の内側でその理由、原因、要因を突き詰めようとするでしょう。あるいは不安や自信のなさをどうすれば解決できるかと言う方向にもなるでしょう。でも、と言いますか、そもそも、内輪で、内側で、あれこれ考えるときというのは、堂々巡りになってしまいがちです。そして結果として、言葉にできないのに、抱えている思いが、自分を、周りを傷つけてしまうことにもなるのではないでしょうか?
だからこそイエスさまは譬えの中で、「内輪で争えば」とおっしゃられるんです。「内輪で争えば」というのは、国とか家でのこととしてだけでなく、その国の中にいる私、その家の中にいる私、その家族の中にいる私のことでもあります。私の中で、内輪もめがあり、その内輪もめの中で、不安や、自信のなさが、最初は小さいものであっても、それが自分の中で大きくなってしまい、あるいは自分が大きくしてしまい、ますます強くなってしまうのではないでしょうか?
つまりイエスさまがおっしゃられる強い人というのは、自分に自信がない、不安を持っている人であり、不安や自信がないということを、内面であれこれと考えてしまうと、それがより強くなっていくことを言い表しているのです。
しかし、強い人というのも、最初から強いわけではありません。弱い思いがだんだんと内輪もめするうちに、大きく、そして強くなり、自分を支配してしまうものです。弱さを見せまいとして、自信のなさを見せまいとして、自分の弱さ、自信のなさ、不安を覆い隠すために、強い人として演じて、見せていくのではないでしょうか?でも本当は強くなんてないのです。でも強がって自分を見せ、演じていくその時に起こることが、人を傷つけてしまったり、荒れていくこともあるでしょう。同時に、自分自身も傷つけていくのです。だからこそ、イエスさまは、そういう自分自身の中にもあるものを、まず縛り上げなければとおっしゃられるのです。
縛り上げるという言葉だけを見れば、イエスさまは何と過激な言葉をおっしゃるのか?と思われるかもしれません。でも、自信がないこと、不安になってしまうことがあること、それが自分の中で内輪もめすることによって、強くなってしまうからこそ、それをイエスさまは縛り上げてくださるのです。しかし、イエスさまは、その不安になってしまう、自分自身の中にあるものを縛り上げるだけで終わりません。縛り上げた後、その不安と、自信のなさの代わりにイエスさまは、安心と平安を与えようとしておられるのです。
イエスさまは不安をあおるのでもなく、自信のなさをこれみよがしにされるのでもありません。その不安を、平安に変え、自信のなさを、あなたはあなたでいいんだ!と変えてくださいます。
埼玉県の秩父にある中学校は大変荒れた学校でした。その学校の校長先生でいらした小嶋登先生は、荒れていた学校を何とかしたいという思いで、「歌声の響く学校」にすることを目指し、合唱の機会を増やしていきました。最初こそ生徒は反抗し、抵抗しましたが、音楽科教諭の先生と共に粘り強く努力を続けた結果、歌う楽しさによって学校はだんだんと明るくなっていきました。
「歌声の響く学校」を目指して3年目の1991年2月下旬、音楽の先生は「歌声の響く学校」の集大成として、「卒業する生徒たちのために、何か記念になる、世界にひとつしかないものを残したい!」との思いから、作詞を校長先生に依頼しました。その時校長先生は「私にはそんなセンスはないから」と断られました。でも翌日、校長先生からの書き上げられた詞が机の上に置かれていました。その詞を見た音楽の先生は、なんて素適な言葉が散りばめられているんだと感激し、授業の空き時間に早速ひとり音楽室にこもり、作曲されたのでした。
出来上がった曲は、「3年生を送る会」で教職員たちから卒業生に向けてサプライズとして歌われました。この年度をもって校長先生は41年に及ぶ教師生活の定年を迎えて退職されました。たった一度きりのために作られた曲でしたが、生徒たちがその次の年も、また次の年も歌うようになり、次第に広がっていきました。今では、卒業式に良く歌われる合唱曲となりました。校長先生は今から10年ほど前に召されましたが、そこには生徒たちに寄り添い、卒業する生徒たちのこれからを思い、希望をもって羽ばたいてほしいと、心を込めて送り出そうとされた先生の思いがこもっています。
旅立ちの日に
白い光りの中に 山なみは萌(も)えて
遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず
勇気を翼にこめて 希望の風にのり
このひろい大空に 夢をたくして
懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあのとき
心かよったうれしさに 抱き合った日よ
みんなすぎたけれど 思いで強く抱いて
勇気を翼に込めて 希望の風にのり
このひろい大空に 夢をたくして
いま 別れのとき
飛び立とう 未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい
このひろい 大空に
自分の中で、自信が持てない時、将来への不安で、自分の中で、ああもうだめだとか、ああもう無理だと思い込んで、その思いで自分自身を縛り上げてしまうこともあるでしょう。それが強くなってしまうこともあるでしょう。しかし、そういう私たちであってもイエスさまは、そこから解放してくださいます。自由を与えてくださいます。そして新しい出発を与え、内輪もめの生き方から、平安を与え、希望ある将来を与えてくださいます。
神さまは約束しておられます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」将来と希望を与える計画、平和の計画を神さまは私たちに与えてくださいます。その約束は、私たちの内側で不安と自信のなさについての内輪もめからではなく、私たちの外から与えられる神さまからの贈り物です。それは平和の計画であって、災いの計画ではありません。将来と希望を与えるものです。