2022年2月6日礼拝説教要旨

輝く日を仰ぐ時(マルコ4:10~12,21~34)

松田聖一牧師

 

インドにおられたマザーテレサという方がいます。死を待つ人の家という施設開設に携わり、ノーベル平和賞受賞後に日本にも来られたことがありましたが、一つの良く知られている言葉があります。それはマザーテレサの講演を聞いて、私もインドのカルカッタに行きたい!と申し出た方々に、こうおっしゃった言葉です。「カルカッタは、あなたのそばにあります。あなたのそばにあるカルカッタにどうぞ行ってください。」そう語るマザーテレサのところに、どうしても行きたい!お話を伺いたいと願う方は世界中からカルカッタに向かうんですね。そんな中で、ある一人の方がカルカッタにぜひ行きたいということで、出かけました。そして修道院のミサでマザーがお話をされるということを聞いた彼女は、何とか直接聞きたいということで、修道院に向かいました。既に世界中からたくさんの人が来られていて、中に入ろうとしても、押し合いへし合いでした。彼女は、もうこれは中に入れないかもしれない。もう帰ろうかと思っていた時、ミサが行われる建物の外の道路を、年をとられたシスターがよたよたと掃除をしていました。それを見た時、彼女はガッカリしました。マザーテレサは慈悲深い方なのに、こんな弱弱しいおばあさんに日差しのきつい外の掃除をさせるんだ~配慮もできない人なんだと残念な気持ちになりました。

 

その時、おばあさんのシスターと目が合ってしまいました。するとそのシスターはニコッと笑って、笑顔で、「中にどうぞ」と案内してくださいました。彼女は帰ろうかなと思っていましたが、笑顔で中にどうぞと言ってくださったので、帰るに帰れなくなりミサに何となく参加することになりました。やがてマザーテレサが登場しました。彼女はびっくりしました。今登壇したマザーテレサは、あの外をよたよたしながら、掃除をしておられたシスター、その人だった!のでした。

 

掃除をしていたマザーテレサも、ミサに登場したマザーテレサも同じ人です。その同じ人でありながら、ミサでなければ、ミサから掃除に、ミサの時にはお掃除をされる方から、ミサの中での壇上の人になるのです。そして同じその人が、「中にどうぞ」と笑顔で言ってくれた時、その言葉は、帰ろうかなと思っていた彼女に、向けられた特別な言葉になるのです。

 

イエスさまが「ひとりになられた」時、それはイエスさまが一人孤独になられたという意味だけではなくて、自分だけ別になって、つまりイエスさまは、神さまの独り子、神さまご自身としての姿と、有様を顕されたという意味でもあるんです。それはイエスさまが、神さまとしての姿に変化したということではなくて、最初からイエスさまが、神さまでもあられる、ということです。

 

そのイエスさまが本当に神さまだということを顕された時に、12人の弟子たちと一緒にイエスさまの周りにいた人たちとが、イエスさまのたとえについて尋ねられた時、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と、この人たちには、あなたたちには神の国の秘密が打ち明けられていると、特別におっしゃっておられるのです。それは外の人々とおっしゃられる人々と、差別しているのではなくて、イエスさまに尋ねた人々と、「外の人々」とを分けて、区別しておられるのです。

 

その意味は何か?イエスさまの弟子たちと、弟子たちと一緒にイエスさまの周りにいた人々が、秀でていて、そうではない人々、外の人々とを優劣をつけて、こちらが良くて、あちらが悪いとか、どっちがいいとかどうとかではなくて、イエスさまは、語られる相手によって、語る内容を分けておられるということです。全員に同じことを言っているのではなくて、それぞれに必要なことを、必要に応じて分けて語っておられるのです。

 

それは外の人々というのが、具体的にはどんな人を指すのかは分かりませんが、「見るには見るが、認めないこと、聞くには聞くが、理解できず」という状態であるからです。見るには見るが、認めないこと、聞くには聞くが、理解できないという事実がある、だからこそそれに合わせて、そういう状態だけれども、何とか伝えようとして、何とか分かるようにと言う思いで、たとえで語られるのです。

 

100歳万歳という番組がありました。ホールを借りて、そのホールがある地元の方々の中で、100歳になっておられる方が舞台に登場します。アナウンサーが質問されますが、その質問を全く聞いておられないんです。耳に、と言いますか、頭に入っていきません。だから出て来る答えは、とんちんかんなことです。でもそれがまた大変ユーモアがあって、会場がどっと笑いで包まれます。またこっちをご覧くださいといっても、見ていません。見ているようでも、見えていないし、時にはどこどこ?という感じにもなりますが、総じてほのぼのとした番組だったと思います。100歳くらいになられると、そういうことが起こり得ると思います。こっちの言ったことを、分かっていらっしゃらない、こっちの言ったことが頭に入っていかない、見てと言っても、見ていない。もうすでに頭の中にあるご自分の思い、ご自分の答えが出て来るんです。でもそれがまた楽しませてくださるので、それもありということで、アナウンサーの方はその100歳の方々の、ある意味ではとんちんかんな答えに合わせて、ユーモアを込めて進めていかれ、話を上手に合わせていかれるのです。

 

見ているのに、見ていない、見ているのに、見えない見えないと言う。聞いているように見えても、聞いていないし、分かっていない、理解できないことが、100歳の方だけのことではなくて、私たちにもいろいろあるのではないでしょうか?

 

例えば、一回聞いたらすぐにわかるかというと、理解できるものもあるでしょうが、その反対もありますね。初めての所にいく時もそうです。こう行ったらいいと説明されても、説明してくださる方は、知っていても、こちらに土地勘がなければ、いくら説明されても、すぐには分からないことって、結構あります。

 

それは神さまがおっしゃっておられることに対しても同じです。見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できないこと、分からないことが多くあるのではないでしょうか?

 

でもイエスさまは、認めず、理解できなくても、すべてをたとえで示されるんです。神さまのことをすべて譬えで示して下さるのです。こちらが分かろうが、分かるまいが、認めなくても、理解できなくても、それでも示されるのです。こうだということを教えてくださるのです。そしてその譬えを通して、神さまがこうだということを、私たちに見えるようにもしてくださるのです。

 

それが21節からの譬えに繋がります。ともし火は燭台の上に置くとイエスさまはおっしゃいますが、このともし火は、ランプのことです。菜種油などを入れて、そしてそこから芯をピロっと出して、そこに火をつけるものですが、このランプの灯は、蛍光灯のように、ぱあっと明るくなるものではありません。ほのかな、消え入るような光です。字が見える明るさかというと、とんでもありません。何かが良く見える類のものではありません。

 

そういう明るさですから、升の下に置いても、寝台の下に置いても、何かを読むための明かりにはなりません。そういう機能はありません。そういう意味では、上に置こうが、下に置こうが、何かを読むということのための明かりとしては、関係ありません。じゃあイエスさまが「升の上や寝台の下に置くためだろうか。」

いいえそんなことはない。「燭台の上に置くためではないか」とおっしゃられる意味は、燭台の上に置くことで、その明かりによって、字が読めるようになるとか、その明かりの周りにあるものが、よく見えるようになるということではなくて、その明かりを見て、どこに何があるかではなく、どこに向かっていけばいいか?ということを、見せるためなのです。進むべき方向を指し示すために、明かりを与え、それがよりよく見えるようにしてくださるのです。それがあれば、そこに、灯台に向かって進むように、してくださるのです。

 

灯台の光も、ランプと同じで、その光で字が読めるということではありません。でもその灯台の光が目に入った時、その光は見えます。その灯台の方向に船を進めたら、無事に港に着くことができます。でも反対に、その光が見えない時、あるいは見ようとしない時には、その灯台の光は見えてきません。

 

それと同じことをイエスさまは、聞くということにおいても見せておられるのです。というのは、「何を聞いているか、注意しなさい」とある言葉は、何を聞いているかを、あなたがたは見なさい、目を凝らしてみなさい!という命令形です。あなたがたは見なさい!しっかりと見なさいということは、イエスさまの言葉、イエスさまが語られた言葉は、あなたがたに見えるものだということになるのです。イエスさまの言葉が見えるのです。だからこそそれをじっと目を凝らしてみなさいとイエスさまはおっしゃっておられるのです。

 

そういう意味で譬えを通して、イエスさまは見せていかれるのです。見えるんだ!イエスさまの言葉は見えるものだということを、神の国は次のようなものであると、蒔かれた種は、人がどうしてそうなるのかは分からなくても、見せてくださり、見えるようにしてくださるのです。一度に豊かな実ができるのではありませんが、それでもまず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができること、実が熟するということを見せてくださるのです。それがたといどんなに小さな種であっても、見えるのです。最初は小さくて、吹けば風に飛ばされるような小さな種、からし種のようであっても、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣をつくれるほど大きな枝を張るという、姿を、成長した姿を見せてくださるのです。

 

そういう見えるものだからこそ、目を凝らしてみるようにとおっしゃられたイエスさまは、見えるようになることを通して、まことの神さまがいらっしゃること、まことの神さまであるイエスさまがいらっしゃることを、私たちに示してくださり、見せてくださいます。

 

大阪の泉佐野というところに港があります。今から数十年前のことです。嵐の中で、一艘の漁船が方角を見失いました。どこに向かっているか分からなくなりました。暴風雨です。そんな暴風雨の中で、波にもまれながら、もがきながら、いつ沈没するか分からない中で、船長さんは、死を意識しました。もうだめかもしれない!そんなギリギリの時に、港のすぐ近くにあった教会の十字架のネオンサインが目に入りました。それを見た瞬間、港は十字架の方向だということが分かり、その十字架に向かって、船を進めました。船は無事に港に辿り着くことができました。それは港のすぐそばにあった教会の十字架があったからでした。やがてその船長さんは、その教会に行くようになりました。イエスさまが世の光だということを教えられ、イエスさまを信じた後、今度は新しくできた、イエスさまを伝える船、真光丸という船の船長となり、大阪湾はもとより瀬戸内海、紀伊水道に至る海を走る伝道船として、港に向かい、イエスさまを伝える船の船長となられたのでした。

 

光を見る時、イエスさまを見ようとする時、天地すべてのものを造られた神さまを思えるようになります。その神さまは、その方向に向かって、信じて見ようと一歩歩み出すとき、私たちに神さまを仰ぐことができるように、自然を与え、輝く太陽、月、星を与えてくださった神さまが、神さまの作品であるそれらを見ることによって、まことの神さまがいらっしゃることを示し、与えてくださいます。

 

讃美歌に「輝く日を仰ぐ時」という讃美歌があります。「輝く日を仰ぐ時 月星眺むるとき いかずち鳴り渡るとき まことの御神を思う。森にて鳥の音を聞き、そびゆる山に登り、谷間の流れの声に、まことの御神を思う。御神は世人を愛し、ひとりの御子をくだし、世人の救いのために、十字架にかからせたり。あめつち造りし神は、人をも造りかえて、正しくきよき魂、持つ身とならしめたもう。わがたまいざたたえよ。大いなる御神を。わがたまいざたたえよ。大いなるみ神を。」輝く日を仰ぐ時、今日も神さまが確かにおられることを与えてくださいます。見えるものを通して、神さまが分かるようになります。

 

今日も神さまがお造りくださったすべてのものを見ながら、神さまを仰ぎ見ながら、今日も語り見せてくださるイエスさまが共におられることを、神さまから受け取らせていただきましょう。

説教要旨(2月6日)