2021年12月12日礼拝説教要旨
福音の初め(マルコ1:1~8)
松田聖一牧師
日本山岳会の父と呼ばれたウェンストンという宣教師がおられました。ウェンストン宣教師は、宣教師としての働きと共に、日本にあるいろいろな山に登り、山登りの道を開いていきます。そんな中、1893年のことですが、日本アルプスに登るために大町に入りました。その大町で旅館に一泊したウェンストンはその翌日が日曜日であったので、山登りをしないで宿屋で安息日を守っていました。すると道路の反対側の家から、歌が聞こえて来ました。でもその歌は、実際、立派なものではありませんでした。けれども外へ出て尋ねてみると、これは日本人のキリスト教信者の小さいグループの本部であることがわかったのです。ウェンストンは驚きました。そして感謝しました。宣教師が来る前に、もうすでに日本人によって、キリスト教が伝えられていたこと、イエスさまを信じている方が与えられていること、礼拝がまもられていることに、感謝しました。その出会いを与えるために、神さまは私をここに遣わしてくださったことも、ウェンストンは心から感謝しました。そしてその礼拝に加わりお互いに初対面ではあっても、同じイエスさまを礼拝できる恵みに与られたことでしょう。
そのように自分自身が行こうと決めて、その道が開かれ、そこに出かけて行ったとき、そこで私より先に遣わされた人がいて、そしてその人が、私のための道を準備してくださっていたという、出会いが与えられていきます。もちろん、そこに行こうとしたのは、自分でそうしよう、自分で行こうと決めて行動していきますから、自分が開いた道です。しかし同時に、自分で決めて、自分で行こうと進もうとしたその道が開かれた時、開かれたその道には、そこに行こうとする自分のために準備する人、準備してくださったその人が与えられていたことに、気づけるようにしてくださるんです。その出会いは、そこに行く前には思い描くことすらなかった出会いです。しかし開かれたその道に進む中で、確かに与えられたその出会いは、神さまであるイエスさまが、私のために与えて下さっていた出会いだということに、繋がっていきます。
まさに「わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」との言葉通りです。自分がそこに行くよりも先に、神さまが私のために、その道を準備してくださる人を遣わしてくださいます。そしてその人を通して、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という神さまからの呼びかけが与えられているんです。
では「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということは、具体的にはどういうことなのでしょうか?1つは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」は、ここで登場してきますバプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネが荒れ野で叫んだ声であり、内容です。では「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」の意味は、あなたがたは、主の道を用意しなさい、準備し整えなさい、あなたがたはまっすぐな、一直線な道、踏み慣らされた道を作りなさいという叫びです。
踏み慣らされた道ということは、何度も何度もその道を通ることで踏み慣らされた道となります。何度も歩いて、何度も踏み慣らして、まっすぐにせよという道は、ようやくまっすぐな道に出来上がっていくということです。さらに言えることは、神さまに向かうまっすぐな道というのは、最初からまっすぐではなくて、曲がっているということです。でこぼこしています。まっすぐではありません。ではまっすぐになるためには、その道を行く人が、何度も何度も踏み慣らしていくこと、何度も何度も同じ道を通らされることで、平らにされ、曲がったところはその角が取れていくといったプロセスを経て、まっすぐになっていくということではないでしょうか?
つまり、一回だけではまっすぐにならないんです。何度も何度も行きつ戻りつしながら、まっすぐな道、神さまに向かうまっすぐな道が、作り上げられていくのです。
そういう意味で、ヨハネを通して「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という叫び声によって、(5)ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。というこの人々も、この時には確かに罪を告白し、洗礼を受けたわけですが、それで終わりではなくて、そこからいろいろと何度も何度も踏み慣らす道が与えられていくということです。そこから洗礼は、ゴールではなくて、スタートですということに繋がります。
洗礼というのはゴールではなく、スタートです。洗礼がゴールになっていたら、大変です。資格を受けるために、教会に来られて、洗礼という資格を受けたらもうそれで終わりではないです。洗礼は、スタートだから、スタートしてからの道、イエスさまを信じて歩みだす道には、いろいろあるということです。
いろいろという言葉は、非常にいい言葉ですね。「人生いろいろ」という歌もある通り、まさに人生いろいろです。いろいろと言う言葉は、ここ伊那ではよく使われるように思います。つまびらかに、事細かく、微に入り細に入りではなくて、そういうことがなかなか言えない内容も含めて、いろいろあるという言葉に置き替えることができるというのは、いい表現だと思います。そのいろいろは、イエスさま信じ洗礼を受けてからも、本当にあります。そのいろいろを赦されて、それぞれにイエスさまが導いてくださる道が洗礼によってスタートしていくんです。
それはヨハネのもとに来た人々だけでなく、人々を導いたヨハネにおいても同じです。彼の身にまとっているもの、食べ物を見る時、何をしている人だったのだろうかと思う姿ですね。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」ラクダの毛衣を着るとは、預言者と呼ばれる人たちの一般的な服装でしたし、旧約聖書に登場してきます預言者エリヤの服装とも同じです。ただし、ラクダにはラクダ独特のにおいがありますし、ラクダの毛衣、皮もなめして用いられますが、きれいで清潔とは言えないかもしれません。でもヨハネは旧約の預言者と同じ服装で、いなごと野蜜を食べていたとありますから、イナゴというたんぱく源を食べていたということです。このことを初めて知った時、ヨハネは、イナゴを食べているんだと驚きましたし、すごいものを食べているんだということと、自分にとっては、とてもじゃないけれども、食べられないと思いました。
ところがここ伊那に参りまして、いなごは特別なものではないということが分かってきました。でも自分から食べようというところまではまだ辿り着いておりませんでしたが、そう思っていた私自身のために、ある時一緒にご飯を食べましょうと誘われて、食事のところに少し遅れて到着しましたら、開口一番、「さあ、ここにおいしいものがあるよ~いなごのつくだにがあるよ。おいしいよ~食べてごらん!」目の前には本当にいなごがありお皿に盛ってありました。「まあ食べて!せっかく伊那に来たんだから~ぜひ食べて!おいしいよ~」目の前に備えられました。「初めてですが・・・」と遠慮がちに言いましたが、そんな声なんてかき消されて、「まあ是非食べてごらん~おいしいよ~」ということで、ちょっとおどおどしながらでしたが、いただくことにしました。見れば見るほど、いなごです。イナゴを食べる免疫ができておりません。でも目の前に私の先駆者として、いなごがありました。結局、見ないで食べましたら、まんざらでもありませんでした。エビと思っていただきました。
誘われて、そこに行きましたら、そこに到着する前に、いなごが備えられていました。私のために準備されていました。それを頂きました。ということは、ヨハネがそれを食べていたということは、突拍子もないものを食べていたわけではなくて、栄養価の高いもの、野蜜も含めていいものを食べていたんです。荒れ野と言う厳しい環境では、それくらいに栄養価の高いものを食べないと大変だったと思います。そういう意味では、とんでもないと最初感じていたヨハネの食習慣も含めて、それも必要なものだということに、変えられていくということは、そこにもスタートの要素があるということですね。スタートして、そのいなごと野蜜の意味と意義がだんだんに分かってくる作業は、自分自身の固定概念が変えられていくことですし、今までのこうだ!という考え方が目の前に備えられたものを通して、それと自分自身が向き合い、ぶつかり、そして削られながら、まっすぐになっていくということでもあると言えるでしょう。
そのいろいろなプロセスの中で、ヨハネが宣べ伝えた「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」は、ヨハネ自身が、かがんで履物のひもを解く値打ちもないほどの者、自分の価値が全くないとか、自己卑下をしているのではなくて、後から来られるイエスさまがどれだけ偉大であり、どれほど大きな方か!私のやっていることは比較にならないほどに大きなお方であるということを、今までの自分自身を何度も何度も踏み慣らしていくこと、行きつ戻りつしながら、ぶつかりあい、削られていくことを通して、イエスさまがどれほど偉大なお方であるか!イエスさまがどれほど素晴らしいお方であるか!ということを指し示しながら、そのイエスさまから与えられるものだということを、証ししているのです。
自分自身に置きかえてもそうです。自分自身も、自分自身がしてきたことも、イエスさまのなさることとは比べ物にならないということ、それほどに偉大なお方であることを、イエスさまを信じて歩む中にあっても、一回でわかるのではなくて、いろいろあって分かるようになり、いろいろあってまっすぐにさせられていくのです。
あるシスターがいらっしゃいました。そのシスターが、ご自身の洗礼の時のことについておっしゃっていました。私は父を亡くしてから、母に反抗し、ふてくされ、母を無視したり、母に対していろんな思いを持っていました。そんな母が、私をミッションスクールに入れ、それまでいた学校から別のところに行く用になったときにも、母に反抗し、母の言うことを聞かず、母に対してふてくされた態度でした。当時は空襲が毎日のようにあり、このまま反抗し、ふてくされている自分はいつ死ぬか分からない中で、自分のような人間はここにいていいのだろうか?という不安がいつもありました。そのことを通っていた学校のシスターに相談しましたら、シスターが聖書を毎日15分ずつ読んでごらんなさいということと、そんなあなただから受洗したらどうですか?と言われた時私は、水で私のこの性格などが変わるのだったら、受けてみようということになり、洗礼を受けました。でもちっともかわりませんでした。急に母に対して優しくなれたわけでもない。ふてくされていることも変わりませんでした。でも聖書の中に、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさいという御言葉に出会った時、出会ってからの、いろいろな思いを吐露されておられました。
私自身にも辛いと感じること、いやだと思う事、裏切られること、傷つくこと、いろいろある中で、感謝できるかというと、感謝どころか、恨んだり、文句を言ったりいろいろあります。私はその時その気持ちは出していいと思います。でも神さまは、それらのいやなことは、神さまが必要だから与えて下さって、私が耐えられないものではなくて、耐えられることだと信じているから、耐えられることだから、だから贈り物として贈ってくださるのだ、神さまは決して悪いようにはなさらない、こと、希望を持てるように、その当座は、行きつ戻りつしながら、その道を踏み慣らしていく中で、神さまは決して悪いようにはなさらないという希望を与え続けておられるんだということを習うことではないかと思います。
一回言われて、ああそうだと分かるものばかりではなく、何度も何度もぶつかりながら、頭を打ちながら、なんでだろう?なんでだろう?と疑問をぶつけながら、それでも神さまが与えて下さる道を、歩き続けていくことで、与えられる希望が必ずあります。
そのスタートを切ることができるように、イエスさまの福音の初めは、始まったら終わりではなくて、初めから終わりまでずっと続く、そのはじまりです。これからいろいろとはじまっていくのです。そこにイエスさまと共に参加できていただきながら、本当にイエスさまは救い主だということをその時々に適って分かるようにしてくださるのです。
イエス・キリストの福音の初めは、終わりではなく、スタートです。スタートですから、いろいろな素晴らしい希望のあるドラマがこれからも続きます。