2021年11月21日 礼拝説教要旨

欠けたところに(マルコ10:17~31)

松田聖一牧師

お金持ちの意味について考えてみましょう。お金持ちというと、どんなイメージをお持ちでしょうか?生活にも、これからの人生にも何の心配もないほどのお金があるという意味で、お金持ちということでしょうか?もちろんそれはあると思います。ではそれだけなのかというと、お金持ちというのは、お金を持っているという意味では、全ての人がお金持ちと言えますね。というのは、お金持ちという意味は、イエスさまがおっしゃられる「財産のある者」ということですが、その財産のある者、の意味は、お金を持っている者ということ以外に、人が用い、人が必要とするものという意味もあるからです。ということは、お金を持っていることと同じく、該当する人は全員になりますね。人が用いるもの、必要とするものは、私たちにそれぞれありますから全員が持っています。今日は礼拝後に、献堂式、就任式に備えて大掃除などをしますが、その時に必要なものがありますね。掃除機、雑巾、道具といったものから、その掃除機など道具を使うための、この手、足も必要とします。ルンバだけでは掃除をしきれません。全自動で手ぶらで何もしなくて済むかというと、窓ふきはどうするのか?と考えましたら、もちろん、この手を使いますね。外ではテント設営も行いますが、柱を組み立てること、屋根を張って、柱をそれぞれ持って、息を合わせてたてていくことも、テント張りには必要です。他にもいろいろ必要があります。そのいろいろの中には面白い、いろいろもあります。

 

あるところで大掃除がありました。皆さんがそれぞれに自発的に、自分の気づかれるところをいろいろと奇麗にしていかれました。何かを組み立てたりされる方もあり、いろいろです。その中で、面白い光景は、その大掃除を見物する方もいらっしゃいました。一人で見物するかというと、2人か3人で見物しながら、お互いに、だんだん奇麗になってきたよね~いいねえ。みんなで動くっていうのは~という話題で楽しくしゃべっておられるのです。掃除らしきことは何もしてはおられません。でもいいねえ~と言っています。実はそれもありです。全員ががむしゃらに、掃除ばかりではなくて、そういう掃除を見物しながら、楽しそうにされるのも、それもまたよい宣伝と言いますか、証しになっていきます。楽しそうにしているなということが、周りに伝わります。だから、午後にお掃除される中で、少ししんどくなられたら、どうぞ見物に回っていただいて、いいねえ、みんなで掃除するのは~きれいになっていいねえ~としゃべっていただいたらいいと思います。それもまた、必要なものだからです。いいねえ~も必要です。必要だから、それを使えばいいのです。

 

それらも含めて一切が、財産を持っている者という意味ですし、お金持ちに繋がります。しかし、お金をたくさん持っているだけではなくて、必要とされるものと、それを用いる人も含めて、お金持ちということになります。

 

その人がイエスさまのところに走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」この問いを詳しく見ると、彼は、永遠の命を、わたしが、必ず受け取るために、私は、必ず何をすべきでしょうか?つまり、彼の問いの中心は、ただ永遠の命が欲しいという願いではなくて、「わたしが」なんです。もうお願いでがなくて、私が、永遠の命を必ず受け取るです。何をすればいいかというお伺いではなくて、私が必ずすべきなのか何か?ということですから、イエスさまに尋ねながら、実はイエスさまに尋ねていなくて、私が、私が、と、私が必ずすること、をしっかり持っています。その私を基準として、イエスさまを「善い先生」と評価しているのです。それに対してイエスさまは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」イエスさまを、私を基準にして、善いという評価をするなんてできる立場ではなくて、最初からずっと「善い」んです。誰が何と言おうと、誰がどんな評価をしようと、それに全くとらわれるお方ではなくて、最初からイエスさまは、「善い」お方なのです。

 

それでも、私を基準にして、私が必ず受け取る、私がすべきなのは何か?でイエスさまに尋ねているのは、尋ねる形ではあっても、尋ねる私を認めてほしいという欲求があるのではないでしょうか?それがイエスさまに対してだけではなくて、私たち同士にもあることです。

 

どうしようと尋ねられたときに、何か意見とか、答えが欲しいのではなくて、どうしようと言っている、わたしを認めて~という問いがあります。私の言っていることはあなたよりも、正しいよと言うことを認めさせようとする問いもありますね。いろいろな場面に見られる問いですが、その根っこは、どうしよう~と言っている私を受け入れて!私を認めて!という欲求です。

 

それに対してイエスさまは、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」に(20)すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

 

彼が答えた「守ってきました」というのは、その掟を自分が破ることなく、守ってきましたということではなくて、その決まり自身が、失われたり、歪められたりしないように守ってきましたという意味です。その掟に対して、私はどうだったか、その掟にあることを守ってきたとか、守れなかったとか、ではなくて、その掟そのものが失われないように、歪められないように、守ってきましたですから、そこには自分自身のかかわりがあるかというと、自分自身がそれらの掟に、ちゃんと向き合っていないということになります。どこかよそ事にしているのです。

 

でもこの時、彼は、私が必ず受け取りますとか、私が必ずすべきことはと言って、私は、私は、と私が出ているのです。それに対して、イエスさまは、「彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。』その掟を、自分自身が守れたか、守れなかったかということではなくて、その掟に、自分自身が向き合っていたか?いなかったでしょう!と、できたとか、できなかったかではなくて、神さまが与えて下さった掟に、わたしは向き合っていなかった、わたしがなかった、私がない、その1つをさして、欠けているものが1つあるとおっしゃられるのです。

 

では具体的に、どう向き合っていなかったのか?向き合うとか、あるいは向き合っていないというのは、どういうことなのでしょうか?

 

その1つにあなたは知っているはずだとおっしゃられる「父母を敬え」という戒めを、私が受け取ろうとするとき、この「父母を敬え」は、ただ単に両親を大切にしなさいという道徳訓的意味ではなくて、あなたの父母を通して、あなたが生まれたことを受け入れているか、自分が、この二人の両親からの子どもであることを、私は受け入れているかと言う問いです。同時に、その両親を受け入れるということは、両親を与えて下さった神さまを受け入れることに繋がるということです。

 

その時、両親を受け入れられないでいる自分がいたら、それは両親を受け入れていないだけではなくて、その両親を通して生まれた、私を受け入れていないということになり、さらには、両親を与えて下さった神さまを受け入れていないということになるんだよということです。このことを、自分自身に置き換えて受け取っているかどうか。私のこととして受け取っているかどうか?この問いに、私はどうするかというとき、親がいるというのは、自分にとって、逃げも隠れもできない事実の中で、両親という事実を、どう受け取るかということです。そもそも両親がいなかったら、私はいません。両親がいなかったら、私はいないのは分かるけれど、その両親を、私はどう受け取っているのか?というと、気持ちも含めて、いろいろあると思います。その時の、私を、私は受け入れているかどうか?気持ちも含めて、避けることもあるでしょう。そういう私であることを、受け入れたくない、思い出したくもないとか、いろいろあるかもしれません。しかし、イエスさまが聞きたかったことは、父母を敬えという戒めを、私は、どう受け止めてきたか、どう受け止めているかという、そこです。ただその戒め自身が、失われたりしないように、歪められたりしないように守っているかどうかではない、そこじゃなくて、その戒めの前に、私がいるかどうか、です。そしてその戒めを、私は守れなくても、戒めを受け入れることが出来なくても、イエスさまの慈しみは、変わることがないし、その慈しみは、私たちの前にいつもあるのです。

 

でも彼はそこに立つことができませんでした。あなたに欠けているものが一つあるとおっしゃられ、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』に、「悲しみながら立ち去った」のです。それはお金をたくさん持っていたからというよりも、イエスさまの言われたことを、その通りできなかったということでもありません。できたか、できなかったかということを与えて下さるお方の前から、結果がどうであっても、それでもなお慈しんくださるお方から、離れたのです。

 

でも本当は離れる必要は全くありません。というのは、イエスさまのおっしゃられた通りに、しようとしたら、私が、した、わたしのお金、私が集めた財産を、私は手放すことになりますが、でも手放したくないのであれば、イエスさまに手放したくありませんと言えばそれでいいのです。私にはできませんということであれば、できませんとそのまま言えばいいわけです。理由もいろいろつけていいのです。まだまだいろいろと使うことがあるから、イエスさま、まだ駄目です。まだ自分の手元に置いておきたいですと言えば、それはそれで、イエスさまとの関係は続きます。今はまだだからもう少し時間をくださいと言えば、イエスさまと共に、イエスさまから与えられる時間の中にいることができます。でもイエスさまの前から離れてしまったら、それはイエスさまから離れてしまっただけではなくて、イエスさまを通して与えられている神さまの戒めからも、神さまからも離れてしまうことになり、それは私がどこにいるか、私が何者であるかからも、離れてしまいます。私が誰なのか、どういう者なのかが分からなくなります。

 

それはちょうど、山の中で、地図を失い、方位磁石を失い、時計を失うことと似ています。方位磁石がなかったら、自分がどこに向かっているか、北なのか、南なのか、東なのか、西なのか分からなくなります。時計がなかったら、今何時なのか、今何日なのかも分からなくなります。地図もなければ、自分がどこにいるか分からなくなって、同じところをうろうろしてしまうことに繋がり、遭難します。

 

イエスさまがおっしゃっている意味は、それは弟子たちに対してもそうですが、戒めやイエスさまがおっしゃられたことを、守れたか、守れなかったかと言う結果がどうとか、こうとかと言う以上に、戒めを与えて下さっている神さまから離れないこと、神さまが与えて下さった戒め、言葉を、離さずに持っているということです。それさえ持っていたら、その時々に必要に応じてイエスさまは必要な助けを与えてくださいます。慈しんでくださっていることを分かるようにしてくださいます。

 

いつもくよくよくよくよしておられる方がいました。後ろを振り返って、ああ~あんなことをしなければよかった。何であんなことを言ってしまったんだろう~と自分のこれまでのことを振り返りながら、くよくよ、くよくよしていました。そんなときに、初めて聖書に出会い、教会に行かれるようになりました。ある時に、その教会の先生が訪ねてきてくださり、聖書の言葉を読んでくださいました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」この言葉を聞いた時に、私に語られた言葉だ!過ぎたことをくよくよして、多くのことに思い悩んでいるのは、私のことだ!と思いました。そしてこの言葉を絶対に離したらあかん!と思われたんですね。それから洗礼を受けられ、くよくよすることもあるけれども、前のようにくよくよすることはなくなった~と嬉しそうにおっしゃっていました。本当にうれしそうでした。

 

イエスさまは、私たちに必要なものが何であるかをご存じです。その必要を与えて下さる神さまを信じ、イエスさまを信じて、離れないことです。その一つのことを、持ち続けていくことです。その時、自分で必要を満たすために、私が、私が~ともうしなくてもいいのです。そしてもう後は、イエスさまにお委ね、お任せしようと受け取れるように、イエスさまはして下さいます。

説教要旨(11月21日)