2021年11月7日礼拝説教要旨
もう大丈夫(マルコ12:18~27)
松田聖一牧師
一般的に「大往生」が使われるケースは、平均寿命よりも長く生きた場合が多いようです。日本は世界でも有数の長寿国ですので、平均寿命の80歳半ばを超えていれば、大往生だと考える人は多いでしょう。ただその言葉を使える時と場合を考えた時、大往生だったね~とは言えないことがあります。またそもそも大往生と言える生き方、人生とは言えないこともあります。それこそ長生きをされ、大往生だったと言える方であっても、残された者にとっては、もっと生きていてほしかった!もっと長く生きていてほしかったと願う気持ちもあるでしょう。さらには、亡くなられたことに対して、何で死んでしまったのか?何で生きていてくれなかったのか?何で先に逝ってしまったのか?何で自分だけ置いて逝ってしまうのか?いった思いもあります。ある方がこんなことをおっしゃいました。「私よりも先に逝ってしまうなんてずるい!」正直な気持ちだと思います。そしてその思いは、亡くなられたその方に対してだけではなくって、神さまはどうしてこんなことをさせるのか?神さま、ひどいじゃないですか!あんまりじゃないですか!と、言ってしまうこともあると思います。
そういう意味では、生きておられた一人の人が召されることにおいて、いろんな思いがあるし、いろんな出来事がその亡くなり方も含めていろいろあります。そういうことを家族も含めて、周りの方々は受け止めていかれるのではないでしょうか?それは今日の聖書の中に出てまいります、サドカイ派と呼ばれる人たちが、イエスさまに尋ねる内容にあります「ある人」のお兄さんが結婚されて、そのお兄さんが亡くなられた時、子どもさんがいらっしゃらない場合には、そのお兄さんの弟と、お兄さんの奥さんだった彼女が結婚をして、跡継ぎをもうけなければならないという、決まりによって、兄がなくなった時に始まる、兄と結婚された彼女自身も含めたその家族にも、いろいろあるということです。
というのは、兄がなくなったら、兄と結婚していた兄嫁は、その兄の弟と結婚します。家を絶やしてはいけないから。でもその弟と結婚した、元兄嫁は、その弟も先に見送ります。でも家を絶やしてはいけないから、元兄嫁は、次に三男と結婚することになります。でもその三男も、跡継ぎを残さずに亡くなり、四男、五男、六男、七男(しちなん)と次々と結婚しては、跡継ぎを残さないまま、その妻を残して先に逝ってしまうのです。そして(22)「最後にその女も死にました」と彼らは語りながら、イエスさまがおっしゃっている復活の時には、その7人の兄弟が復活するので、その女は誰の妻になるのでしょうか。という質問に続いていきます。
しかし、この質問になるまでには、長男、次男、三男、も含めてその家の7人兄弟が全員なくなってしまうという悲劇があります。「死にました」とありますが、これは自然に亡くなったという意味ではなくて、殺されたことで死にましたという意味です。それが長男から始まって、次男、三男と、次々と7人の兄弟と結婚していかれた妻、嫁にとってだけではなくて、そのご両親が健在であれば、その両親は、自分たちより先に子どもが先に逝ってしまうということ、しかも7人の男の子が全員殺されて、死んでしまうという、想像を絶する出来事の只中にあります。またそれぞれの男性と結婚した彼女にとっても、夫が次々と殺されて、全員が亡くなるということは、たまったものではありません。次々と悲しみがやってきます。失った、もういないという現実を7人の夫との結婚と死別で経験します。こんなことがあっていいのかと思うほどです。そしてその結果、彼女は一人残されて、やもめになってしまいますから、立場もご主人がいた時とは全く変わります。生活にもたちまち困ります。そこに「後継ぎを残しませんでした」と言う事実が突き付けられますから、残された彼女に、ご主人をなくされた悲しみを、悲しむ余裕もないほどに、跡継ぎを残さなかったことが、彼女に大きく、また重くのしかかってくるのではないでしょうか?
さらに彼女は最初、長男と結婚しましたから、彼女にとっての最初の夫は長男であるその人です。彼女は、その人の夫になろうとして結婚したのです。次男と結婚するために長男と結婚したわけではないです。でも長男であるその夫が跡継ぎを残さずに、亡くなったので、次男と結婚しますが、三男と結婚するために次男と結婚したわけではありません。それが七男まで跡継ぎを残さなかったので、結婚が繰り返されていくのです。そして7回の別れを経験します。この人と結婚しようとして、結婚したのに、予定にない人と結婚することが続いていく・・・こんな人生ってあるのか・・・と思うくらいの、人生です。見送るために、ただその家を守るために、跡継ぎを立てていくためだけに、そのための歯車の一つにされたかのようにも思います。そうなると彼女の人生って何なのかと思います。
しかし、そういう経験をした彼女に、また7人の兄弟を先に送らなければならなかった家族や、周りの方々への寄り添う言葉は、このサドカイ派の人々の質問には見られないんです。ただ自分たちの、復活はない、復活を否定する立場からの質問であり、復活の後、7人と結婚した彼女は、だれの妻になるのか?ということを尋ねたいんです。イエスさまを困らせてやろうとしている問いでもあります。けれども、そういう出来事の当事者となった、その人、彼女も含めた家族に対する思い、寄り添う言葉は、ここにはありません。でもそれでいいんでしょうか?イエスさまに、議論を吹っかける前にやることがあるのではないでしょうか?次々と死んでしまわれるということを、議論のネタにしていくことは、いいのか?
そうではないです。今、最も必要としていることは、夫を次々となくされた妻、彼女への思い、寄り添う事です。でもそれはありません。どうしてそこに思いが及ばなかったか?それは当事者とそうではない方との違いであるかもしれません。
神戸の震災の直後に、いろいろな方が被災地を訪ねてくださいました。救援物資を届けてくださり、いろいろとしてくださいました。大変ありがたかったことを思い起こします。その来てくださる方々の中で、困ったなあ~という出来事もありました。それはせっかく来てくださったのはありがたくて、そのお気持ちもうれしいのですが、来て大騒ぎすることでした。それは「大変だったね~どんな地震だった?どんなに揺れた?どこがそのように被害にあっている?誰がどこで亡くなられたの?」根掘り葉掘り聞いて来られて、そしてその聞いた方々同士で、聞いた内容をお互いにしゃべりあって、盛り上がっていかれました。親切にしてくださっているのはよくわかりますし、物資も持ってきてくださいました。でも、こちらが願っていることは、大変な出来事の中にいる方々を前にして、大変な出来事をネタにして、盛り上がらないで~こちらはそれどころじゃない。大変な出来事で盛り上がれば上がるほど、辛くなるよ~という気持ちでした。その一方で、ただそっと来られて、そっと物を置いて行かれる方もいました。顔を見るだけに来られる方もいました。ただそれだけでした。でもそれで十分でした。当事者とそうではない方との違いは、あって当然です。おかれた所が違いますから、違って当然です。でも違うから、自分の聞きたいこと、自分のやりたいことで突っ走っていったら、それによって傷ついてしまう人が出て来るんです。
サドカイ派の尋ねたいこと、やりたいことはよく伝わります。7人共亡くなった時、その妻も亡くなった時、復活の時誰の妻になるのか?ということです。イエスさまに答えてほしいことです。でもそれはイエスさまに言わせれば、「思い違いをしているのではないか」なんです。それは彼らが間違っているということを言っているのではなくて、思い違いという言葉の意味である、道に迷っていること、あなたたちはそんな思い違いをしているのではないか。あなたたちは神さまから離れて、正しい道から迷い出ているのではないかということです。
つまり彼らは、亡くなった方がどうなっているのか、どうなっていくのかが分からないので、迷っているのです。それでも自分たちが正しいんだということを確かめるために、あれこれイエスさまに尋ねますが、それをすればするほど、聖書からも離れ、神さまからも離れていくのです。それでもイエスさまは、彼らが、間違っているから駄目だということではなくて、迷っているからこそ、正しい道から迷い出ているからこそ、正しい道に帰れるように、亡くなった方についての、迷いがなくなるように、聖書も、神さまの力も知ることだよということへ導かれるのです。そして神さまを知らずに迷い、正しい道から離れてしまい、人を傷つけたりしたことも、そういう私であることを、神さまは何もかも引き受けてくださり、そして引き受けてくださった神さまは、「天使のようになるのだ。」神さまと一緒に、神さまに一番近い存在として、神さまと一緒に、終わりが来たら、終わりではなくて、私たちに、これからを与えてくださるのです。神さまと一緒という意味は、これで終わりではなくて、これからがあるのです。
三重県の大王というところにイエスさまを伝えるために、宣教師がやってきました。一人の方が、中国でイエスさまを信じて、戦後引き上げて住んでおられました。そこでその方がぜひ来てほしいと頼まれたことで、教会が建てられていきました。その教会の働きの最初の頃、その方のお母さんは、最初キリスト教にいい気持ちを持っていませんでした。でも息子さんは、イエスさまを信じたら、あなたもあなたの家族も救われますと約束されているからと、信じながらも、母はだめだろうと思っていました。ところがある時に、このおかあさんが、囲炉裏の火で、大やけどを負ってしまいました。それで病床にふされるのですが、大やけどを負われた後、ご自分の命がいくらほどもないと気づかされたのでしょうか?不安な声で、言い始めました。「おれの行く先はどこか?おれの行く先はどこか?」何度も何度も繰り返されました。それをずっと言い続けていました。これから私はどうなるのか?どこに行くのか?と迷いながら、自分がこれからどうなっていくのか、わからない不安な中で、おれの行く先はどこか?おれの行く先はどこか?どこか?と何度も何度もうわごとのようにおっしゃっていました。息子さんも、これは何かあるということで、宣教師に相談しました。すると「それは自分が死んだ後どうなるか。分からないから、不安になって言っているんだ」ということと、お母さんが、イエスさまを信じたいと言われたら、すぐに洗礼を受けましょう・・・ということになりました。そこで息子さんは、お母さんの枕元で聖書のみことばを読みました。そしてお母さんに、イエスさまを信じますかと尋ねた時、信じますと答えていかれ、病床での洗礼となりました。そして洗礼式が無事に行われた後、あれほど「おれの行く先はどこか?」盛んに聞いていた、その言葉がピタッと止まりました。そして周りの人がびっくりするくらいに、静かに安らいでいかれ、それから三日目に天に召されたのでした。
その洗礼の時に読まれた御言葉が「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。・・・こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。」でした。イエスさまのいるところに、あなたがたもいることになる。心を騒がせるな。神さまを信じなさい。イエスさまを信じなさい。でした。
私は一人じゃない。イエスさまがおられるところに、イエスさまと共にいることになる、そのことを信じた時、おれの行く先はどこか、から、おれの行く先は、イエスさまが一緒にいるところだ。一人じゃなくて、イエスさまが一緒だ、がその通りになりました。
イエスさまは、なくなられた方も、神さまと共に生きていること、死んで、死んだ先苦しんでいるのではなくて、天使のようになるのだ、と約束くださっています。その通り、たとい、どんな亡くなり方をされたとしても、神さまが一緒です。神さまが愛して、大切にされているその人だから、悪いようになさいません。神さまは、その人を、もっと素晴らしいその人にしてくださっています。その方々と共に、神さまは、生きて、いつまでも一緒におられます。だから心配はいりません。心騒がせなくてももう良くなりました。もう大丈夫です。