2021年8月1日 礼拝説教要旨
収穫は多い(マタイ9:35~10:16)松田聖一牧師
イエスさまは、神さまの働きを一人でされたのではありませんでした。というのは、今日の聖書のみ言葉で、イエスさまが、町や村を残らず回ってとある言葉には、連れて回るとか、連れて歩くという意味もあるからです。つまり、イエスさまが、町や村を残らず、全ての町や村を、会堂で教えながら回られたとき、イエスさま一人だけではなくて、イエスさまの弟子たちも一緒にイエスさまは連れ回っているし、連れ歩いています。
ということは、イエスさまが連れまわして、連れ歩いている弟子たちも、イエスさまがされること、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたことを目の当たりにします。もちろん弟子たちが人々の病気や患いを癒したわけではありませんし、イエスさまが弟子たちに何かをしなさいと言われたわけでもありません。ただイエスさまと一緒に歩きながら、イエスさまがされることを、目の当たりにしていくのです。
いろんな分野の師匠がいらっしゃいますが、その師匠の弟子になるとき、弟子となったその人がまずすることは、師匠のされることを見ることですね。料理人の師匠に弟子入りすれば、そのお弟子さんは最初何をするかというと、師匠は、最初から、お弟子さんに道具を触らせません。触らせてくれません。勝手に触ったらえらいことになります。ただじっと師匠がすることを近くで見て、技術とは直接関係ないような、掃除やら、雑用を色々していく中で、ようやく道具を触らせてもらえるようになります。それは他の職人の方や、大工さんといった、道具を使って仕事をするところに弟子入りしたときも含めて同じです。最初は見るだけです。やがて時が来て、見よう見真似で道具を扱い始めます。
イエスさまが、弟子たちを連れまわして、町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気を癒されたのは、その姿を弟子たちに見せて、学んでもらうためです。そして癒された人々がどうなっていくのかも含めて、イエスさまは弟子たちに見せていくのです。弟子たちは何もしていないかもしれません。でもイエスさまのされることを見て、ああこうするんだとか、ああするんだということを弟子たちなりに感じ取っていくのではないでしょうか?
そしてイエスさまが、そこまでしようとする動機、その時のイエスさまの姿も弟子たちは傍で見ていくのではないでしょうか?それが「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」姿です。イエスさまは、はらわたがよじれるほどに、想像を絶する苦しみの中で、人々が弱り果てて、打ちひしがれている、落胆し無力であるその人々を見て、深く憐れまれるのです。イエスさまにとって、飼い主のいない羊のようになっている、その人々がどんなにつらい中にあるか?飼い主のいない羊は、どんなに迷っているか?どんなに生きるに大変か、どれほどに、どうしていいか分からなくなっているかをイエスさまは見ておられるんです。その時、イエスさまは、いてもたってもいられないんです。はらわたがよじれるほどに、内臓が揺さぶられるほどに、尋常ではない、その姿も弟子たちに見せていくのです。そして弟子たちはイエスさまのその姿を見て、学んで感じていくのです。
そしてこの言葉をイエスさまから聞きます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」イエスさまは、「収穫は多い」とおっしゃっているのです。少ないのではない。多いのです。しかし、そのための働き手が少ないから、収穫は多いのに、多くの収穫があっても、収穫しきれないということが起こるのです。
先週はブロッコリーが一斉に収穫の時でした。今の季節は、キュウリも、なすびも含めて、夏野菜の収穫の時期です。その実のなる時期は、一度にどっとやってきます。しかしその時に、収穫する人の手が足りなければ、収穫できないし、収穫の時期、旬を逃してしまうことになります。だから収穫の時には人手がいります。一度に収穫ですから、出来るだけたくさんの人が必要です。イエスさまは神さまですから、もちろん、一人であってもできるでしょう。しかし、イエスさまはその収穫を、一人ではなく、多くの人と一緒にやろうとしておられるのです。
でもその呼びかけに、収穫の手伝いをしたくないとか、いろいろな理由で断ってしまったら、収穫できるのに、目の前に収穫できるものがあるのに、収穫できずに終わってしまったら、その作物の旬を過ぎてしまいますから、せっかくの収穫ができないことは、もったいないですよね。
イエスさまは、わたしたちに自分で何もかも全部しなさいとおっしゃっていません。全部を一人でする必要は全くありません。一人でできることは限られています。だからこそ収穫は多いから、その働き手が必要だということを、イエスさまは、一緒にいた弟子たちに対して、また私たちに対しても、語るんです。多いから「だから、収穫のための働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と、収穫の主、神さまが収穫を与えて下さるから、イエスさまと共に収穫の恵みにあずかれるように、働き手を送ってくださるように願いなさい、祈りなさいと、おっしゃっておられるんです。
そのための12人の弟子です。しかし12人ではとてもじゃないけれども神さまの働きのためには、全く足りません。それでも、その彼らから始まる弟子たちに、イエスさまは、汚れた霊に対する権能、神さまの働きをするための職務、任務を与えていかれるのです。権能とは、神さまから託されているという事実そのものです。その弟子たちの名前が紹介されています。ところが、この12人を見る時、お互いの関係は、とてもじゃないけれども一緒にはできない関係です。徴税人マタイは、親ローマ派です。しかし一方で、熱心党のシモンは、ローマを倒せという過激派です。イエスさまを裏切ったユダもいます。お互いの関係だけを見たら、こんな人たちが一緒になれるなんていう関係ではありえません。でもイエスさまはそんな弟子たちを、神さまの働きのために弟子として任命して、神さまの働きができるように、神さまの働きを託してくださり、力を与えてくださるんです。それにあたって、収穫は多い、少ないのではない!多いのだ!そのための働き人を送ってくださるように、収穫の主に願いなさいとおっしゃられて、送り出そうとされるのです。
その派遣先で、どんなことが起こるか、どんな出会いがあるかについて(5)~(16)にいろいろ記されています。端的に言えば、遣わされるその先で、いろんなことがあるということです。時には、割に合わないようなこともある、弟子たちにとって、受け入れられることもあれば、受け入れられないこともある、良いときもあれば、悪いときもあります。こちらが何かをしたから、それに見合うものが返ってくるというギブアンドテイクでもないし、こうすれば、利益につながるというものでもありません。そういうことに、とらわれることなく、越えていく働きだということを、イエスさまは教えておられるのです。
その中でイエスさまは「平和があるように」あなたがたに平和があるようにという挨拶の言葉、神さまの平和、神さまの平安があるようにという言葉を与えて、それを言葉にできるようにイエスさまは、「平和があるように」と挨拶しなさいとおっしゃってくださいます。
「平和があるように。」この言葉が交わされた出来事の中で、印象的なことがありました。それは今から2000年前の教会が始まったばかりの時、イエスさまを信じる人たちは、地下にある教会、洞窟のような場所に隠れるようにして集まって、礼拝をささげていました。洞窟の中は真っ暗です。それはお互いの顔が見えないようにするためでもありました。なぜならば迫害の時代でした。誰が集まっていたか、お互いに分からないようにするためでもありました。激しい迫害が続きました。命を失う人たちも多くいました。そんな中で、礼拝を守り、洗礼式は、年に一回だけでした。復活祭の日、イースターに執り行われました。洗礼を受ける前には、迫害の中で、信仰を守り抜くかと言うことも含めて、聖書を学びイースターを待ちました。イースターの夜明けと共に、洗礼式が執り行われたことでした。そういう迫害の中で、礼拝が守られ、そこに集う方々がお互いに挨拶を交わすときに、交わされる言葉が、「平和があるように」でした。神さまの平和、神さまの平安があるように、でした。そして互いに挨拶をして、それぞれのところに遣わされていきました。しかし今日あった人と、来週の礼拝でまた会えるかどうかは、何の保証もありません。来週にはいないこともありました。殺されていなくなった方もいました。そういう意味で、「平和があるように」との挨拶は、次に挨拶できるかどうか分からない、ギリギリの中でのあいさつでもあったということです。イエスさまは、そんな厳しい状況の中でも、礼拝を守り、それぞれの方々が遣わされていく、その遣わされたその先で、神さまの守りがあるように、平和、平安があるようにとの願いと祈りを込めて、挨拶しなさいとおっしゃられるのです。そういう中でであっても、収穫は多い、収穫は少ないのではない。多いから、そのための働き人を送ってくださるように、収穫の主に願いなさいとおっしゃられるのです。出会ったその人が、その後どうなっていくかは分かりません。イエスさまのことを伝えて、信じることができたかどうかもわかりません。でも収穫は多いのです。イエスさまを信じて、イエスさまに出会っていく方が多く与えられることを、これからどうなっていくか分からない中で、約束くださっているのです。
中国でのことです。第二次大戦中、中国で働いていたノルウェー人宣教師がいました。ある時、その宣教師が働いていた場所に、ノルウェーから海外伝道の担当の先生が来られることになりました。そして若い青年の兵隊さんたちに挨拶をすることになりました。その時、当局から厳しく言われていました。それは彼らに、キリスト教のことを話すな!これから戦場に行く彼らがひるんだり、不安になったりしてはいけないからとか、キリスト教の思想を伝えてもらっては困るということでした。それでやむなくその先生、モルテンセン先生という方でしたが、当たり障りのない挨拶をノルウェー語ですることになりました。そしてその挨拶を現地で働いていた宣教師が、中国語に訳すことになりました。ヨハンセンという宣教師でした。挨拶をする日となりました。モルテンセン先生は壇上に上がり、ヨハンセン先生は、通訳として隣に立たれました。ありきたりの、当たり障りのない挨拶をノルウェー語でし始めた時、通訳のヨハンセン先生は、目の前にいるこれから戦場に向かう若い方々を見て、なんとも言えない思いになりました。そしてイエスさまから、わたしのことを話しなさいと言われたように思いました。そして一つの思いに至りました。「この人たちに今、イエスさまのことを伝えなかったら、どうなる?チャンスは今しかないかもしれない。これから死んでしまうかもしれない。」そう思った時に、こちらでは当たり障りのないことをノルウェー語で話していたその挨拶を、通訳者のこの先生は、「皆さん!イエスさまは、あなたのことを愛しておられます!これから戦場に向かわれる皆さんの中に不安もあるでしょう。もうこれで終わりかもしれないと思われることもあるでしょう。でもイエスさまはあなたを愛しています!守って下さり、救ってくださいます。どうか今、イエスさまを信じてください!」もう必死でした。
でもこちらでは当たり障りのない挨拶をノルウェー語でしています。でも彼は、挨拶をそのまま通訳しませんでした。イエスさまを今目の前にいる人々に伝えようとして、伝えていったのでした。
通訳としては無茶苦茶です。こんな通訳はありません。しゃべってもいないことを通訳するなんて、あり得ません。でもイエスさまを信じて従おうとするとき、時には無茶苦茶だと言われてしまうようなことであっても、イエスさまが言われた通りに、できる時があります。できる時を与えてくださいます。その時を逃すのではなくて、たとい無茶苦茶なことであっても、それをしなさいと言われる時には、それができるようになるのです。神さまの愛は、じっとしていません。動くものです。絶えず出かけて行って、動くものです。それをしなさいと言われたとき、わたしたちに、イエスさまは、イエスさまのそのひと言「平和があるように」を与えてくださいます。そしてそれをそのまま受け取って、どうなるかは分からないけれども、その語られたひと言を、そのまま信じて、語っていくことであり、動こうとすることです。その時イエスさまは、わたしたちの口から出る、「平和があるように」このひと言を通して、イエスさまがしようとしておられる、多くの収穫のために用いてくださいます。