2021年7月25日礼拝説教要旨
立ち上がって(マタイ9:9~13) 松田聖一牧師
今日の聖書のみ言葉に登場してまいります取税人マタイも含めて、当時の収税所で税金を取りたてる方法は、徴収する取税人に直接渡すという形でした。そしてマタイは、その税金を取り立てる場所、収税所に座っていたということですが、そもそも税金を取り立てる取税人は、どのようにして選ばれたのかというと、ローマ帝国内で、それぞれの地域を治める総督と呼ばれる人が選びます。ただ実際には、税金を集める取税人を、現地で募集していきます。そして入札で一番高い値段を付けた人に、取税人の権利を与えていきます。それで初めて、税金を取る仕事につけるし、その取税人は税金を取り立てていけるのです。さらには、取税人の給与はローマ帝国から支払われるのではありませんから、自分の給与分も含めて取税人が、自分と同じ民族であるユダヤ人から徴税、徴収するというシステムです。ローマに納める金額は決まっています。そのためにユダヤ人から集めていきます。しかし、ユダヤ人たちからどれくらい税金を取り立てるかは、取税人自身に任されています。つまり、自分の給与を上げたければ、ユダヤ人からたくさん徴収すればいいし、より多くのユダヤ人から徴収すればいいわけです。ローマに納めるものをしっかり納めたらあとは自分のものになります。そういうことですから、同じユダヤ人たちからは、自分たちと同じ民族なのに、ローマのために働くとは・・・しかも自分たちから税金を取り立てて、ユダヤ人のためにではなくて、ローマのためにそのお金が使われていくといったことに対して、嫌っていくんです。
ユダヤ人たちは、税金を納めることについて、いやだとか文句があるのではありません。ただその税金が、ローマという異邦人のために取り立てられていたことを、受け入れられないので、その仕事をしている取税人を受け入れられないし、嫌うのです。そしてその税金から、自分たちの給与を得ていくことは、ユダヤ人にとっては、ローマの手先となって私腹を肥やし、給与を自分たちから取った税金で賄うという意味になるから、そういうことをしている取税人を、嫌うのです。
では収税所に座っているマタイは、どういう中にあったのか?まずは「収税所に座っている」ということが、税金をユダヤ人たちから、巻き上げるように取り立てていたということになるのかというと、収税所に座っている、別の意味では、滞在しているということ以上の言葉はありません。ただイエスさまから「わたしに従いなさい」と言われたとき、彼は「立ち上がって」イエスさまに従ったという意味から、言えることがあります。それは、立ち上がってとは、ただ椅子に座っていた状態から、よっこいしょと立ち上がったという意味ではなくて、復活して立ち上がり、イエスさまに従ったという意味です。ということは、それまでのマタイは、死んだ状態であったと言えるでしょう。もうそれ以下がない、絶望と言ってもいい状態にあったということです。
でもマタイは収税所に座っているということは、その収税所には居場所があったし、生活はできたと言えるでしょう。お金に困らなかったでしょう。お金があって、生活できるということは、それなりに欲しいものも買えたし、贅沢もできたかもしれません。でもそれでマタイは幸せだったのか、生き生きと過ごせたのかというと、いいえ。死んだ状態であったということです。希望がない、絶望しかない、生きている意味、自分がここにいる意味、座っている価値、生きている価値が全然分からない状態であったとも言えるでしょう。しかし彼には、その収税所は自分の居場所です。1つしかないと言える場所です。それはあるのです。
ここにいていいという居場所があったら、それで幸せなのかというと、もちろんそういう場所は必要ですね。でも1つあればそれでいいのか?収税所という1つあればそれでいいのかというと、マタイにとっては死んだ状態でした。
それでもマタイにとって、いていい場所は収税所でした。そこしかなかったと言えるでしょう。イエスさまは、そこに座っていた、そこにいたマタイを見かけて「わたしに従いなさい」と言われたそのとき、マタイは、復活して、死んだ状態から生きるものとされたのは、イエスさまと言う、命そのものであるお方と一緒に生きることができる、一緒に歩めるという出会い、マタイを受け入れてくれるイエスさまと言うお方との出会いが与えられたからではないでしょうか?
それからマタイにとって、これまでと全く違うつながりが与えられていくのです。それが、「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」イエスさまと共に生きることで、これまで一緒に食事をすることなんて考えられなかった、罪人と呼ばれる方々も大勢イエスさまのところにやってくるのです。そして一緒に食事をすることになる、そこにマタイもいるし、そこにいられるし、いていいのです。それはマタイにとって、新しい方々との出会いの場になっているのではないでしょうか?それまでの場所から、立ち上がってイエスさまに従ったことで、つながる出会いとなったのではないでしょうか?
収税所で座っている状態であったら、出会えなかった人々です。そのまま収税所に座ったまま、そこから動かない状態でもそれなりに過ごせたかもしれません。けれどもイエスさまは、そこから立ちあがれるように、再び生きられるように、マタイがマタイらしく、いろんな人との出会いと、関係の中で、生きられるようにしてくださることで、マタイは、収税所に座っているマタイではなくて、立ち上がって生きるようになったマタイとなっていくのではないでしょうか?そしてそれがマタイにとって、最も自然なマタイらしい生き方となっているのではないでしょうか?それは自分の世界から一歩出ないと分からない世界です。自分の居場所、1つの居場所にじっと座っているだけでは見えてきません。そこから立ちあがっていくこと、そこから一歩踏み出すことで、これまで出会えなかった、新しい出会いへとイエスさまは、「わたしに従いなさい」という言葉によって、共に歩みながらつなげてくださるのです。イエスさまの、わたしに従いなさいとおっしゃられて、立ち上がらせてくださるという意味と目的はそれです。
そして、そういう新しい世界に一方踏み出すとき、新しい出会いと共に、いろんな人がいろんなことを言い始めることも、もちろんあります。あれやこれや言う人は、いつでもどんな時でも、新しい事であればあるほど、出てきて当たり前です。そのあれこれ言う人にとっては、これまでになかったこと、これまでになかった出会いですから、出てきて当然です。
そういう意味で、ファリサイ派の人々が、イエスさまの弟子たちに向かって「なぜあなたたちの先生は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言われるその言葉の内容も、これまで自分にとって、これが正しいこと、これが当たり前だったということから、出てくる言葉です。それを言う彼らにとって、徴税人や罪人と一緒に食事をしないということが彼らにとっての当たり前だったからです。そしてもう一つの彼らにとっての当たり前は、イエスさまのために周りの方々が食事の準備をして、あれこれしてそしてイエスさまを食事の接待をするということではないでしょうか?でもそれらの彼らにとっての、当たり前とは全く反対のことを、イエスさまがされていることに対して、「なぜあなたたちの先生は、徴税人や罪人と一緒の食事をするのか」になるんです。あなたたちの先生なのに、どうして先生らしからぬことをするのか?その問いに向き合いながら、イエスさまは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とおっしゃられるのは、イエスさまから「わたしに従ってきなさい」と言われて、立ち上がって、従う中で、イエスさまが出会わせてくださる出会いは、丈夫な人ではなくて、病人の方であり、これまで当然とされてきたいけにえをささげるといった、自分から何か、こうする、ああするという、すること、あるいはできる何かをイエスさまにするということ以上に、イエスさまは、ただイエスさまが与え、助けてくださる、支えてくださることを、そのまま受け取ってくれること、を求めておられるからです。そのためにイエスさまは出会ってくださり、イエスさまがしてくださること、イエスさまが与えて下さること、によって生かされ、生きているんだということを、もう一度受け取れるように、こうすればいいという、具体的なこと、答えを最初から出しておられるのではなくて、「行って学びなさい」とまた私たちにボールを返してくださるんです。そうすることで私たちが自分自身で、受け取れるようにイエスさまはその機会を与えようとしておられるのではないでしょうか?
イエスさまはわたしたちに、今いる場所だけではなくて、新しい出会いを与えるために、わたしに従いなさいとおっしゃいます。立ち上がらせてくださいます。その中で、行って学ぶこと、自分の場所だけではなく、自分のこのところから行って、学びなさいとおっしゃっておられます。行って学べることがあります。行って出会える出会いと学びがあります。そのチャンスをイエスさまは与えてくださいます。お恵みですから、それをそのまま受け取らせていただいたら、それでいいのです。