2021年6月13日礼拝説教要旨

だれも失望することがない(ローマ10:5~13)

松田聖一牧師

 

スキー場でバックヤードと言って、ゲレンデではないコースを滑っていたグループが身動き取れなくなりました。早速レスキュー隊が現地に向かい、ヘリコプターで一人一人を釣り上げて救助しました。全員無事だったのですが、最後にリーダーの方を載せて、救助センターに連れ帰った時、その人もうなだれて皆さんに迷惑とご心配をかけたという様子でいました。その時、救助されたレスキュー隊員がその男性に言いました。「バックヤードを滑ったらだめじゃないか!そこに入ったらだめなのに!助ける方も命がけなんだぞ!」大声で怒鳴られました。彼はただうなだれていました。「助ける方も命がけなんだぞ!」それほどに、そこに行ってはいけないということであり、命の危険が伴うのです。つまりバックヤード、コース外のところに行ってはいけないという決まりはそういう意味と、目的です。つまり、そこに行ってはいけないというルールは、ただ単に言ってはいけないということだけではなくて、もっと大切なこと、命を守るために、その決まり、ルールがあります。

モーセの律法とある決まり事がなぜ当時の人々に与えられたのかというと、一言でいえば、民の命を守るためです。守るために神さまはモーセを通して決まり、律法を与えました。荒れ野において、カレンダーもない、方向も、時間も、水の場所も何もかも分からない中、昼夜の温度差が激しいところを旅するにあたり、決まりを守られなければ、あっという間に命の危険にさらされてしまいます。皆が身を寄せ合っている宿営と呼ばれる居住空間から一歩でも外に出てしまったら、そこは厳しい環境です。だから掟、律法を守る必要がありましたし、その掟、律法が語られるところ、律法を聞くことができるところに留まられないと生きてはいけませんでした。そういう意味で、(5)モーセは律法による義について「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています、とあるのです。そしてその掟を聞くことができるところにもとどまり続けるという意味は、掟である十戒を実際にこの目で見たことのない人たちばかりであるということです。目で見て、その字を追うことができたのではありません。しかし目で見ることはできたわけではないけれども、語られたその言葉を聞いて、聞こうとして掟を守るということへと繋がっていくのです。そしてその聞いた言葉を覚えていきます。その覚え方は、聞いたその言葉を、自分で繰り返します。自分の口から、そのきいた言葉を繰り返し言うことで覚えていき、その覚えた掟、律法を自分の中で反芻して、そして毎日の生活、自分の言葉、行いに反映させていきます。つまり、自分の中で繰り返された言葉は、私の言葉になっていきます。

その時、神さまの掟、律法の言葉ではない言葉を、繰り返したらどうなるでしょうか?または、神さまから語られ、聞いた言葉ではない言葉を自分の中で繰り返し言ってしまうとどうでしょうか?間違ったままで覚えてしまいます。正しくない言葉が、自分の言葉になります。自分にとって、それが当たり前と言いますか、正しくなくても、正しいものとなっていきます。それが口から出ないで、心の中で繰り返すときにも、それが心の中であっても、自分の言葉になっていきます。つまり心の中で「だれが天に上るか」とか「だれが底なしの淵に下るか」と言った言葉も、自分の言葉になっていきます。これらの言葉は見えませんし、聞こえませんし、周りには当然分かりません。

神さまは、パウロを通して、そういうマイナスの言葉を言うなと言うこと以上に、心の中であっても、それがイエスさまを引き降ろすことになるということです。この引き降ろすとは、たくらみのなかで、弱さの中でイエスさまを高いところから引き降ろすということです。これは神さまであるお方、何の罪のないお方、正しいお方、100パーセント正しいお方であるイエスさまを引きずりおろして罪人として、最も残酷な処刑である十字架につけて、見せしめにしてまで引きずりおろすということです。それがたとい心の中であっても、誰にも分からない中にあっても、そうすることで、イエスさまを神さまの立場から犯罪人に引きずりおろすことになると語られているのです。そして「だれが底なしの淵に下るか」誰が底なしの深淵、死人の行く場所に下るのかという、人を突き落とす内容は、そのままイエスさまをよみという神さまの手からも離れた、神さまからでさえも切り離されたところまで、イエスさまを突き落とすということです。神さまからも切り離され、見捨てられた、孤独のどん底に突き落とすのです。

そんなことを私はするつもりはないと思っているかもしれません。しかし心の中であっても、そういうことを心の中で言えば、イエスさまを引きずりおろし、まさに孤独にさせてしまうのです。しかし同時にイエスさまは、その突き落とされたところから、甦られて生きておられるのです。そうなることでイエスさまは、すべての人の救い主となられたということですが、人を救うことができるというのは、人のそのどん底の、そのまた下から、引き上げてくださるからです。

英語で理解するという言葉があります。アンダースタンドと言う言葉です。この言葉は2つの言葉からできていますが、下に立つということです。その下に立つことで、その人を初めて理解できるということです。上にいるだけでは分かりません。その人と同じところにいても分かりません。その人よりも下に立つこと、で初めて分かってきます。イエスさまは十字架にかけられ、よみに下り、三日目に甦られました。それによって、本当に救うということ、あなたを救うということを、あなたの下にまで降りて、そこから救い出して下さったのです。

そしてイエスさまはその救いの出来事、恵みにより信仰によって救われましたということを、聖書のみことばを通して、イエスさまは私たちに聞こえるように、そばにいてくださり心にいてくださり、語り続けてくださいます。そこまでしてくださるお方がいらっしゃることを、信頼してみようとしたとき、「口でイエスは主であると公に言い表」すこと、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら」あなたは救われるからですと約束してくださっているのです。

口で告白することと、心の中で信じること、これは表裏一体であり、つながっています。そしてその時、自分が心の中で信じたこと、神さまがイエスさまを死者の中から復活させたこと、イエスさまが甦られて、生きておられることを、自分の口から公に言い表すとき、その言葉は、私の言葉となり、私の心にある思いに、言葉を与えたものとなっていきます。心にある思いは、心にだけおさめていたらそれでいいというのではなくて、イエスさまを信じるという心の思いに、言葉を与え、言葉を添えて、自分の口から出すとき、その言葉は、私の言葉になり、私に与えられた神さまからの約束が、私自身に実現するのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」私を救ってくださるお方がいるという神さまからの言葉を聞いた時、私の思いに言葉を与えてくださる神さまは、私が公に、信じますという言葉も与えて、その言葉を口から出すことで、救ってくださるのです。私は救われましたということが実現するのです。そして主を信じる者は、だれも失望することがないという約束が、本当にその通りになって与えられるのです。

そこには人と人との区別はありません。すべての人に与えられています。あの人はだめで、この人はいいということでもありません。すべての人が、救われて、真理を知るようになることを、神さまは望んでおられるからです。

日本聖書協会から毎月出されているソアという小さな冊子があります。そのソアという冊子の2007年のものですが、一番最初のページに聖書の言葉があり、その聖書の言葉から1つの説き明かしがありました。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」「こんなあり得ない話、ほんとうに信じてるの?」教会学校で復活の物語を学んだ日、わたしは担任のN先生にこう聞いた。今から40年前、小学校5年生の時である。先生はわたしをまっすぐに見、ひとかけらの迷いもなく言い切った。「もちろん、信じてるよ。神さまにできないことは何にもない」。わたしはたじろいだ。大のおとなが本気で信じているなんて・・・。しばらくしてわたしは思い至った。神さまへのこの絶対的信頼は、先生の多難な人生経験の中から生まれてきたものなのだと。わたしは厳粛な気持ちになった。その時、わたしは先生から信仰のバトンを渡された、と今、思う。今年、N先生は93歳に、わたしはあの時の先生の歳に近づいた。わたしは誰に、このバトンを渡せるだろうか。

神さまがいつもおられること、生きておられることを信じている言葉は、口から出てきます。本当だという信頼の言葉として出てきます。それを聞いた時、聞いたその人にも、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」との聖書の言葉が、本当のものとして響いて、聞く者誰もが本当だと受け取れていくのです。

説教要旨(6月13日)