2021年6月6日礼拝説教要旨

「立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18:25~32)

松田聖一牧師

道は本来、人がそこを歩いて作られていきます。人がそこを歩き、また別の人がその人の歩いた跡を歩いていく、その人たちが何十人も、何百人も歩いていく、そして踏み固められ、先に先に伸びていきます。そういう意味で、道は、今のように先にブルドーザーが入ってアスファルトで固められて、そして出来上がった道を、人や車などが通り始めるということではなくて、まず人が次々とその同じ場所を歩くことで、そこが初めて道になっていくということです。けもの道も同じです。道なきところを獣が行ったり来たりすることで、そこに道ができます。道が道になっていきます。

そういう意味で、私たちに与えられた道も、同じです。道が先にあってそこを通って、歩んでいくということではなくて、道すらもなかった時、道らしき道がなかったところを歩いていくことで、道ができていきます。その道はまさに自分の道、私の道です。そこを通ることで、出来上がった道です。自分の道ですから、その道からそれること、自分の歩いてきた道ではない道に変わること、鞍替えすることはなかなか難しいです。やってきた実績、道となった道をこれまでと同じように、歩き続けたいからです。

そういうことと同じく、今日与えられた聖書、エゼキエル書においても、自分の道を歩き続けていた人がいました。それはエルサレムに住んでいる人たちです。彼らは、神さまがエルサレムに住んでいる他の人たちが、エゼキエルという神さまの言葉を預かり、その言葉を語る預言者と一緒にバビロンに捕囚として連れて行かれても、なおエルサレムに留まりました。留まることが彼らにとっては、自分の道だと思っていたからです。それはそうでしょう。エルサレムという町で、自分たちなりに、築き上げてきたもの、これまで歩んできた道がありました。それこそ、道なきところに、自分の道をつけて、自分なりに道を作って、そこを自分なりに歩んできました。その道を踏みしめて、いろんな苦労もあったかと思います。喜びも、悲しみもあったでしょう。だからこそ彼らにとっては、エルサレムに留まり続けることが、自分たちの道であり、その自分たちの道を守り抜くことも、彼らの道となっていたのではないでしょうか?でも神さまは、そこから捕囚というとんでもない形ではあっても、そこから連れ出そうとされるのです。神さまはエルサレムはやがて陥落し、神殿は壊され、失われていくことを知っておられましたから、そのままエルサレムに留まっていたら、人々が死んでしまうことを知っていました。だからそこから脱出させようとするのです。

そのために神さまの預言者としてエゼキエルが立てられ、神さまからのメッセージを預かり、それを捕囚されている場所、バビロンにおいて、そこで捕えられている人々がおられる中で、なおもエルサレムに留まっている人々に向かっても語るのです。しかし、エルサレムに留まっていた人たちにとっては、神さまがおっしゃられることを、受け入れることができませんでした。それは自分の道をしっかり歩いていたからということと、神さまがエゼキエルを通して「お前たちの道」とおっしゃられる通り、自分たちのその道の中で、不正や、悪を行っていたからです。不正、悪とは、どんなことだったのか?具体的には様々であったでしょう。それらのことを、自分の道としていましたから、余計にそこから離れることは難しいことと思いますし、それを切り捨てられないのではないでしょうか?不正とか、悪にひとたびハマってしまうと、それに味をしめてしまいますから、なかなか離れることができなくなります。それゆえにエルサレムがやがて陥落し、滅ぼされる、神殿も焼かれるということを神さまから言われているのに、それを聞き流そうとし、自分のこととして聞こうとしないこと、自分に都合の良いように解釈してしまって、自分の道から離れようとしなくなるのではないでしょうか?

このことは、エルサレムに留まり続けている人々だけのことかというと、いかがでしょうか?私たちにも言えることではないでしょうか?なぜなら、自分なりの道があるからです。自分なりにやってきたこと、ずっと続けてきたこと、今も続けていることがあります。その道を歩むそのやり方は、その人らしいやり方です。そしてそれはその人にとって、誰が何と言おうと「正しい」んです。誰が何と言おうと、その人にとっては正しいものになっているし、正しいものにしています。ただ、ここで何でもかんでも変えなければいけないということではなくて、神さまが決めた道を、私に決めてくださるとき、また神さまが決めた道を私に与えて下さるときには、どんなに自分の道、どんなに自分が正しいと受け止めて、信じて歩んできた道であっても、その道から、神さまの決めた道に変える必要があります。なぜなら、自分が決めた道ではなく、神さまが私に決めて下さった道であるからです。神さまが決められたことなので、それにどうのこうのは言えなくなります。そして神さまが私に決めた道は、私にとっても、神さまにとっても最善の道です。決して悪いようにはなさらない道、必要な道です。

そうであっても、自分が決めて、自分が歩いて作ってきた道を手放すことは、抵抗があるでしょう。揺れ動きます。どこかで自分が決めたこと、自分の道を、正しい道として絶対化してしまっているからです。そういう意味でエルサレムに住んで、エルサレムから離れられないでいた方々にとって、エルサレムに住み続けること、とどまり続けることが、正しい道であり、その自分たちにとっての「正しい」道を捨てるとか、離れるとか、自分から切り離すということはできません。でもできないまま、エルサレムに留まり続けてしまったら、神さまの言われるとおりに、陥落し、彼らも滅ぼされてしまう、死んでしまいます。それが分かっているから、だから神さまは、正しくないのは、お前たちの道ではないか。聞け、イスラエルの家よ、正しくないのは、お前たちの道ではないのか。と、叫んでおられるのです。

「聞け」というのは、さあ、ああ!どうか!聞いてくれ!という神さまの叫びです。聞いてちょうだいというような、優しい言い方では全くありません。どうか聞いてくれ!そのままでは滅ぼされ、死んでしまうから、どうか聞いてくれ!と叫んでいるのです。それはそうですよね。そのままここエルサレムにいたら死んでしまうことが、神さまには見えていますから、そのまま放っておけるはずがありません。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない」のです。しかし彼らは、そう叫んでおられる神さまに向かって「主の道は正しくない」と言うのです。自分たちのしていること、これまでしてきたこと、自分たちの道として作り上げてきた、その道が正しい道、正しいとしているゆえに、そしてその道を道とするために、神さまに「主の道は正しくない」と答えるのです。

神さまがおっしゃっておられるのは、ただ単に、私の言うことを聞こうとしなかったら、だめだ、ということをおっしゃっているのではなくて、私にとっての正しい道、正しいと思って作り上げてきた、道を作る過程で、いろいろなものを踏んで、踏みつけてきたのではないか?そしてそれが、自分の中では正しい道になっているので、そこから離れるということが、どれほどに難しいかということも、知っておられるからです。そしてそのまま神さまが決めて与えて下さった道から外れ続けていくうちに、自分が決めた道を歩くことで自由に、また有意義になると思っていることであっても、神さまが決めて与えて下さった道から外れれば、外れるほど、かえって生きづらさを抱えてしまうのではないでしょうか?自分が決めた道を、歩もうとすればするほど、そうしようとする自分自身に荷がかかってくるし、自分の道を自分で責任を取ろうとすることになるからです。しかし自分の道を、自分が全部責任を負えるかというとできませんね。自分の人生の責任を、自分でとれるかというと、自分の人生であっても、もう自分ではどうすることもできないことがあるからです。神さまにしか、責任を取っていただく以外にありません。だから取っていただいたらいいのです。神さまは取ってくださいます。

だからこそ、神さまは、正しくないのは、お前たちの道ではないのかと叫んでおられるのです。たとい、それに従おうとしないでいる人々がいても、その人々に向かって、聞こうとしないし、主の道は正しくないと反攻していても、それでも神さまは、叫び、手を伸ばし続けてくださいます。そして「立ち帰って、生きよ」と神さまが決めて、与えて下さった道に立ち帰るとき、神さまと共に生きる道を歩めるし、神さまが先立って道案内くださる道だから、安心して生きることができるのです。

神さまが決めて与えて下さった道を歩むこと、立ち帰るとき、とは、「おめでとう!」喜んで下さいます。素直になれないとき、揺れ動くとき、逆らってしまうとき、受け入れようとしないとき、様々ありますが、それでも神さまは、「お前たちは立ち帰って、生きよ」神さまが決めて、与えて下さる道に生きるようにと叫び続けておられます。

説教要旨(6月6日)