2021年4月4日イースター(復活祭)松田聖一牧師

石は既にわきへ転がしてあった(マルコ16:1~8)

 

私たちにとって、痛いと感じること、私たちの心に突き刺さるような、痛い出来事があります。その時、希望が持てないことがあるでしょう。希望が持てないとき、これから先を考えることができません。将来を描くことができません。でもそういう先のことを考えられない中にも、毎日の生活はあります。食べること、寝ること、起きて何かをすることという、生きていくための必要最低限のこと、目の前のこと、目の前にしなければならないことがありますから、希望が持てない中で、それでもしなければならないというのは、つらくて大変です。

 

それはイエスさまが、十字架の上で亡くなられ、墓に葬られ、三日目の朝、安息日の次の日、週の初めの日の日没から始まるその時に、香料を買い、そして、朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ自身にも現れているのではないでしょうか?

 

この時の彼女たちの行動は、すさまじいです。とにかく目の前のこと、彼女たちはしなければならない、必要とされていること、香料を買ってイエスさまの亡骸に塗るということに、集中しています。そして目まぐるしいスケジュールで日が昇ったとき彼女たちは墓に向かって行くのです。

しかし彼女たちの意識の中には、イエスさまが、おさめられている墓穴には大きな大きな石が、その入り口をふさいでいたという事実からのいろんな思いがあります。それが彼女たちのやり取りの中にしっかりと表れています。それがこの言葉「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」です。

 

ではこのやりとりの言葉の意味には、あんな大きな石、だれが墓の入り口をふさいでいる石を、転がしてくれるでしょうか!だれも転がすことなんてできない!もう無理だ、墓に行っても、中には入れないということにつながる悲観的な意味だけなのかというと、もう一つあります。というのはこの「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」の、もともとの意味は、この墓の入り口からあの石は、必ず転がされる、必ずそうなる、必ず誰かが転がしてくれる、必ず転がしのけられるという、未来形で書かれているんです。ギリシア語という言葉が新約聖書のもともとの言葉ですが、未来形として書かれている意味は、ひょっとしたら、そうなるかもしれないとか、半信半疑の意味でなくて、必ずそうなる!必ず転がされ、転がしてくれる!誰かが、必ず転がす!と信じている言葉です。しかし同時に、この時、彼女たちの行く先にある墓には、この出かけた時点では、彼女たちの中には大きな石があるんです。立ちふさいでいるし、だれも転がすことなんてできないという石が、彼女たちの思いの中には、確かな事実としてあるんです。だからそれだけを見たら、それだけを考えたら、誰もできない、希望がないし、将来を考えることもできない状態です。それでも彼女たちには、あの石を転がしてくれる人がいる!転がしてくれるという事実は、墓に向かっていく時点では、何もなかったし、転がしてくれる何か確かな証拠があったわけでも全くなかったのに、石は必ず転がされるという確信がありました。

 

この彼女たちのお互いのやり取りから、私たちに与えられることの1つが、祈りがありますね。私たちは祈りますね。祈りたいこと、神さまに向かって、自分の気持ち、思いを祈りという一つの形の中であらわされていると思います。時には、祈りの内容が無茶苦茶な内容であってもいいのです。こんなことお祈りしてのいいのかしら?と思うことでも、祈ったらいいのです。なぜなら、イエスさまが、祈ったことは、もうすでにかなえられていると信じて、祈りなさいとおっしゃっておられるからです。つまり、今、祈ったこと、今、神さまにこうしてください、こうなってくださいと祈ったことは、どういう結果が与えられるかはわからなくても、もうすでに祈ったことが、神さまの側で聞き届けられ、神さまの側ではしっかりとその祈りが受け入れられているからです。

 

彼女たちの意識の中にあったこと、それは目の前に、これから行く墓の入り口に大きな石があること、ふさいでいることでした。それでも必ず転がされるという、実際に起きていることと、彼女たちの行動に、大きな矛盾がありました。しかし、不安にもなりながら、これから先のことを思い描くことができない中でも、そこに行くことができたとき、彼女たちがまず導かれたことは、墓を見たのではありませんでした。墓を見るのではなくて、「目を上げてみる」ことでした。目を上げてみるとは、目の前の現実ではなくて、神さまを見上げていくことでした。神さまを見上げて、神さまに向かって目を上げていくとき、それまで彼女たちにとって、大きな障害、大きな重荷、絶望としか言えないような、大きな石が、もうすでにわきへ転がされていたのでした。

 

そしてさらに大きな知らせは、イエスさまがここにはおられない、ガリラヤに行かれ、ガリラヤでお目にかかれる、イエスさまと再びガリラヤで会えるという知らせでした。また会える!また再会できる!その知らせを聞いた彼女たちは、すぐに信じたかというと、恐ろしくなったし、正気を失っていたことも聖書にある通りです。でも、またお目にかかれる、また会える、ガリラヤで会える、イエスさまが生きておられること、生きておられるイエスさまに会えるという知らせを聞いた彼女たちは、そのことを他の弟子たちに伝えていったのです。恐ろしかったし、いろんな気持ちも持っていたでしょう。でも彼女たちは、イエスさまに会えるという知らせを、伝えるためにそこから出かけていったのです。

 

どうしてそういう気持ちになったのか?それは内面の出来事ですから、具体的にはわからない部分です。でもイエスさまに会える、イエスさまが生きておられるということを聞いたとき、それを知った時、理屈を超えて、その人を動かしていくということです。そのように人が、それまでの生き方から新しい生き方へと導かれるのは、また信じてみようと思われるのは、いろんな知らせ、いろんな要因がもちろんありますが、それ以上に、それらを超えたところで、神さまが、その人に働きかけてくださっているからです。まさに主は生きておられるからです。その生きておられる主、イエスさまが、私たちにとって絶望と感じてしまうこと、落ち込んでしまうこと、心が疲れること、心が折れそうになること、本当に倒れてしまうこともある私を、支えてくれるからこそ、山に登れるように、荒れた海を渡っていけるように、そこに立ち向かい、そこに向かって一歩歩み出せるように、わたしを超えたところで、イエスさまがしてくださいます。

 

イースター、復活祭、それはイエスさまが甦られて生きておられ、私たちを支えて下さり、そのお方が今も生きておられるということを、確認しながら、それを受け取らせていただく時です。今も生きておられるイエスさまを受け取らせていただいて、それぞれのところにまた遣わしていただきましょう。

説教要旨(4月4日)