「私たちの本国」

加藤 智恵 牧師   フィリピの信徒への手紙 3章7~21節

 

 律法によることは自分の義を求めることで、キリストとは何の関係もありません。しかし、パウロはキリストへの信仰に基づいて、神から与えられる義を求めています。パウロはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみに預かって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からキリストの復活に達したいのです、と言っています。ローマの信徒への手紙6章4節には、「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に預かる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです、」とパウロは言っています。マタイによる福音書13章47~50節には、「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、色々な魚を集める。網が一杯になると、人々は岸に引き上げ、座って良いものは器に入れ、悪い物は投げ捨てる。世の終りにもそうなる。天使たちが来て、正しい人の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と書いてあります。このように、天の国に入るためには、自分がこの世にあって、どのように生きてきたかが問われるのです。

 パウロでさえ、「私は既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけではありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と言っています。

 私たちは神からの義を与えられました。新しい生命を受けました。しかし、この私たちが受けた賜物は、私たちに応答を求めます。私たちがどのように、この受けた賜物に応えてゆくかを要求する賜物なのです。ただ単に救われたというような賜物ではありません。目標を目指して、ひたすら、走ることが求められているのです。神に関わって行くことを忘れず、熱心に神に奉仕することを求めて行くなら、フィリピの信徒たちは、全く異教的な環境にありながら、具体的な模範を見ることができます。パウロがその具体的な模範でした。

 私たちの本国は天にあるのです。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを切望しているのです。キリストは全て万物を支配している力によって、私たちの卑しい肉の体をご自分の光栄ある体と同じ体に変えてくださるのです。

説教要旨(10月18日)