「罪に対して死ぬ」
加藤 智恵牧師 ペトロの手紙 一 2章11~25節
前半の11~17節は、神の僕として生きなさいという勧めです。「愛する人たち」とペトロは呼びかけ、クリスチャンはこの世では旅人であり、この世では仮住まいの身であることを述べ、魂に戦いを挑む肉の欲望を捨てなさい、と勧めています。そして、信仰を持たない人々の間で、立派にクリスチャンとして生きなさい、と勧めています。そうすればこの世に属する人は、クリスチャンを悪人のように呼ばわっていても、ついには神を崇めるようになるのです、と言っています。どこまでもクリスチャンが神を信じて生きて行く時に、この世の人たちは、クリスチャンの生き方に、この世の人たちとは違う素晴らしさを見出して、ついには、クリスチャンとなる人が出て来ます。これはクリスチャンが良い証しをして、伝道したことになります。クリスチャンが一人生まれる事によって、その親族に大きな影響を与えます。ですから、クリスチャンは証しを立て、信仰の継承を心掛けることが大切だと思います。
後半の18節からは、召使いたちへの勧めとなっています。ペトロは善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にも心から仕えなさいと勧めています。不当な苦しみを受けても、クリスチャンは神を信じ、十字架に掛かって私たちの為に死んで下さったイエス様の犠牲を知っていますから、神様は不当な苦しみを受けることを、望まれているのだとわきまえて耐え忍ぶならば、そのことは神の御心に適うことなのです。私たちが召されたのは、不当な苦しみにあっても耐え忍ぶことが神の御心であり、それこそ神の御心に適うことなのです、とペトロは言っています。それは主イエス・キリストが私たちの為に、十字架の苦しみを受けられ、その跡に続くようにと、模範を残されたからです。主イエスは、自分の幸福のためではなく、私たちに神からの恵みと心の本当の拠り所を与えるために、自分を捨て犠牲となられたのです。
キリストが受けた犠牲の傷によって、私たちは癒されるのです。そして、行く場所が分からないような生き方を、かつてはしていた私たちでしたが、クリスチャンとなって魂の牧者であり、監督者である、神のもとへと導かれたのです。クリスチャンはこの世は悪だから、苦しみを受けるのです。12弟子たちは、初めは神の恵みの偉大さと愛を受けていましたが、イエス・キリストが十字架に掛けられて苦しみを受け、復活され、神からの聖霊を受けて、苦しみを受けるのに足る者とされたことを喜びました。
私たちは、いつも神に繋がってゆけば、今日は怠慢だったとか、今日は神の御心に添わなかったと思える日があっても、神に祈れば罪は許され、罪に死ぬ生活をしているのです。神は従ってゆく者に恵みをお与えになる方なのです。