「成長させて下さる神」
加藤 智恵 牧師 コリントの信徒への手紙 一 2章11節~3章9節
コリントの教会はパウロが創設した教会ですが、様々な問題がありました。パウロはクロエの人たちから、コリントの教会の人たちの間に、争いがあることを聞かされました。彼らはパウロが去った後、それぞれに、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「私はケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていました。これはキリストが幾つにも分けられてしまった事になります。大変な混乱状態です。パウロは「十字架につけられたキリストは、神の力、神の知恵であります。わたしはそのキリストを宣べ伝えているのです」と忠告しています。
イエスが十字架に架けられたということは、栄光の主となられたことを意味しています。神は黙して一人子イエスを十字架の上で死なせられました。イエスの十字架は、神の自己犠牲でありました。自分の愛する一人子を、罪人が架けられる十字架に架けたのです。そして、一人子の十字架の死によって、罪ある人間が、キリストを信じて赦されるということになります。神は一人子を十字架につけるという自己犠牲を負わされたのです。自己犠牲ですから、どんなに辛くても神は黙っておられたのです。黙っておられなかったら、自己犠牲とは言えません。しかし、それだけでは終わりません。真理の霊である聖霊を通して、十字架につけられたイエスは、闇や死に勝利されて、栄光の主となられたのです。
この神の霊である聖霊によって、初めて私たちは、神から頂いた十字架の恵みを理解することが出来るのです。私たちクリスチャンは、聖霊を受けたので、神から恵みとして与えられたものを知るようになります。しかし、コリントの教会の人たちは、霊の人の列に加わる資格が無かったのです。彼らはあまりにも人間的な行動をとり、教会員の行動とは言えないような様子でした。アポロとは何者か、パウロとは何者か、アポロもパウロも神の僕に過ぎません。キリストから頂いた賜物を生かして奉仕しただけ。その源は皆十字架に架けられたキリストの内にあると、パウロは自覚していました。人間の手で植えることと水を注ぐことは出来ても、成長させて下さるのは神様なのです。
教会は言い争う所ではなく、一人一人が神のために力を合わせて働く所なのです。パウロはコリントの人々のことを、あなたがたは神の畑、神の建物なのです、と結んでいます。教会が神の良い畑となり、また、神の良い建物となって、大きく神様によって成長させて頂くことが大切なのです。
この世のことで争うのではなく、成長させて下さる神を仰いで、ますます豊かに実をむすぶことを、神は願っておられるのです。