「聖餐」  加藤 智恵牧師

コリントの信徒への手紙 一 11章23~29節

 

 本日の聖書個所は、私たちが通常月に一度、最初の主日礼拝で行なっている「聖餐」についてです。当時のコリントの教会では、どの様な「聖餐式」を行なっていたのか教えられます。コリントの町は、交通と運輸の町であり、商業の繁栄は多くの富をコリントの都市にもたらしました。当時のローマでは、コリント風に生きるということは、不品行に生きることを意味していました。退廃と宗教的腐敗が満ちていました。

 コリントの教会では、毎週夕方に集会が行なわれていました。現代の礼拝に当たります。そして聖餐式として皆が持ち寄ったパンやブドウ酒や食事を、現在の教会では月に一度聖餐式を行ないますが、コリントでは毎週食べる習慣がありました。宗教的な聖餐式と社交的な愛餐会をミックスしたような形の聖餐式でした。信徒が各自、分に応じて食べ物を持参して、それを共に分け合っていました。互いに分け合う行為は良いと思いますが、コリントの教会の主の晩餐は混乱に陥っていました。金持ちは沢山の品々を持って早くに来たと思われます。早く来た彼らは一つの所にたむろして、ご馳走を自分たちでたらふく食べて、ブドウ酒を飲んで酔った者もいました。しかし、貧しい人たちは、それ程の用意は出来なかったようです。食事に来ても何も食べる物が無く、飢えている者もいました。何のために教会に来ているのか、単に飲み食いを楽しむために来ているのか分からない状態で、どこにも聖徒の交わりはなく、犠牲の精神も無ければ、献身のしるしもありませんでした。

 せっかく集会に来たのに、これによって信仰が励まされるのでもなく、愛が加えられるのでもない状態で、お互いの間に紛争があることを、パウロは耳にしました。そこでパウロがコリントの人々に伝えたかったことは、パウロ自身が主イエスから受けたことです。主の晩餐は、キリストの死の記念です。人間の思いを超えた主の晩餐というところにこそ、聖礼典としての聖餐式に含まれる「実在的」な意味があります。言い換えれば、聖餐式に於いてパンを裂き、盃を受けることによって、生けるキリストはそこに存在されます。生けるキリストとの交わりは、そこに経験されます。それなので、全てのクリスチャンはその本来の意味をかみしめながら、「主が来られる時に至るまで」、この聖礼典に繰り返し繰り返し与からなければならないのです。生けるキリストの体と血に私たちは与かるわけです。キリストが私たちの内に生きておられる体験です。それ程に、聖餐式は大切なのです。

そして、聖餐に与かる私たちは主イエスの十字架の死を、告げ知らせなければならないのです。主イエス・キリストはあなたのために命を捨てて下さったのです。それ程に、あなたは神に愛されているのです、と言うことを伝えるのです。そして、それはまず教会の内から始めなければならないと思います。それ故に自分を省みて、自分自身の罪を認めてこれを悔い、罪を赦して下さる神の御心を固く信じて聖餐を受け、主から頂く恵みの故に、新たに生きようとの志を確かめなければならないのです。

説教要旨(8月9日)