「キリストの言葉を聞く」 加藤 智恵牧師
ローマの信徒への手紙  10章5~17節

教会の礼拝が今日から再開されました。コロナウィルスの感染拡大を防ぐために、4月12日イースターの礼拝の時から6月7日まで、実に2ヶ月に亘って、礼拝を自宅で行なうという自粛の生活が続きました。しかし、教会では、礼拝は途切れることなく行ない、教会の皆さんが自宅で共に礼拝を守っておられることを思いながら、説教をしてきました。
2020年度の主題聖句は「信仰に生きる」です。信仰が無ければ、神に喜ばれることはできません、と書いてあります。では、信仰とは何でしょうか?信仰とは、キリストの言葉を聞くことから始まります。パウロは神から遣わされて、律法の行いではなく、信仰の言葉を語っています。神から遣わされた者、つまり神からの召命を受けた者が、信仰の言葉を語るのです。パウロは「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と言っています。この御言葉とは、信仰の言葉であり、口で「イエスは主である」と公に言い表す行為です。そして、心で「神がイエスを死者の中から復活させた」と信じるなら、その人は救われるのです。
旧約の時代は、ユダヤ人が神に選ばれた民であり、聖い民と言われていました。そして異邦人は汚れた民でした。しかし、キリストによって、ユダヤ人も異邦人も区別が無くなり、全ての人に同じ主がおられるのです。キリストは律法の完成者で、律法を終わらせたのです。キリストはユダヤ人と異邦人を十字架において和解させられました。パウロはこの和解の福音を伝えるために、神から召命を受けました。牧師も神からの召命を受けました。パウロは自分は何とみじめな人間だろうと嘆いています。それはキリストを迫害したために、自分は誰よりも罪深い人間だと自覚したからです。しかしパウロは肉に於いて誇ろうと思えば誇るものは沢山ありました。キリストに出会って、それらの物は何の役にも立たないとパウロは知りました。私たちも肉において誇ろうと思えば誇るものは沢山持っています。しかし信仰によって、肉の誇りはつまらない物です。主にあって自らを低くすることが大切です。主イエスは学問のない漁師を弟子として、お選びになりました。牧師の間では、学歴の有無とか肉の誇りなど話すことはありません。ペトロは一番弟子のような存在でしたが、彼は漁師でした。
最後の17節には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と書いてあります。キリストの言葉を聞き続けることによって、信仰が深まって行くのです。

説教要旨(6月14日)