復活節第8主日礼拝 ペンテコステ

聖書:エゼキエル書 37章1~14節

讃美歌:18、344、29

説教:「私たちの墓が開く」 加藤智恵牧師

 

本日は、ペンテコステの礼拝の日です。五旬祭の日に聖霊が弟子たちに激しく降り、弟子たちは、閉じた部屋の鍵を開けて、人々に大胆にみ言葉を語り出しました。天下のあらゆる国からやって来た信仰深いユダヤ人は、彼らの語る神の偉大な福音を自国の言葉で聞き、心を打たれて、大勢の人々がクリスチャンになりました。
本日のエゼキエル書には、有名な枯れた骨の復活について書いてあります。エゼキエルはバビロン捕囚の地で、神によって預言者として召命を受けました。主は、「人の子よ、自分の足で立ちなさい。私は、あなたに語ろう」と言われました。その時、霊がエゼキエルの中に入り、エゼキエルは自分の足で立ちあがることが出来ました。主の召命に応えてゆけるのは、聖霊の働きによるのです。捕囚の地にあっても、真の預言者を神は立てられ、イスラエルを導いておられたのです。
エゼキエルは、イスラエルの滅亡と捕囚という屈辱の中にイスラエルの民がいるのは、神に背き続けたイスラエルに対する神の審判であると預言をしました。70年という長い年月を、バビロンの地で過ごすことになりますが、捕囚の地で自分の選んだ民が、いつまでも苦しむことは、神の御心ではありませんでした。
主は、幻によって、エゼキエルをある谷の真ん中に降ろしました。その谷間には、至る所に骨が散らばっていて、どの骨もひどく干からびていました。これらは、イスラエルの民全体が望みを持たない、死んだような状態を表わしていました。このような状態は、主イエスの弟子たちが、人々を恐れて、戸に鍵をかけて、部屋に閉じこもっていたような状態と同じでした。自分の中に何の希望も見いだせず、もう自分には先がない。絶望しかないと思う状態に追い込まれている者の姿でもあります。それは、あたかも墓場のような状態です。
神は暗闇に閉ざされている者に、そこから光へと脱出する道をも備えて下さっています。
主はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるか?」と問います。エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。エゼキエルにとっては、このような枯れ果てた骨が生き返るとは到底考えられないことでした。しかし、神には何でも出来ると言う信仰がありました。
主はエゼキエルに「彼らの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい」と言われました。枯れ果てた骨に神の言葉が語られます。すると、カタカタと音を立てて骨と骨が近づき、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がすっかり覆いました。そして「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。」と預言すると、霊が彼らの中に入り、彼らは非常に大きな集団となりました。
これらの骨は、イスラエル民族の復興を意味していました。国家としての存在を失い、異邦人の中に散らされてしまったイスラエル民族の復興は、干からびた骨が生き返るのと同じ程、不可能なことでした。しかし、主なる神は、「わたしは、お前たちの墓を開く。わが民よ、わたしは、お前たちを、墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く。わたしは、お前たちを自分の土地に住まわせる。その時、お前たちは、主であるわたしが、これを語り、行ったことを知るようになる。」と言われました。反逆の民であったイスラエルの民に、手を差し伸べて下さったのは主なる神でした。主は、私の、そしてあなたの墓を開き、聖霊によって生きる者として下さるのです。神がどれ程、私たちを愛していて下さるかを、知らせて下さるのです。
祈り
主なる神さま、私たちの全てをご存じで、どのように、反逆を重ねても、不信仰に陥っても、神は、鞭をもって、私たちを懲らしめられますが、必ず救いの手を差し伸べて下さることに感謝いたします。あなたの深い愛によって、人を許すことが出来ますように、お願いいたします。
イエス様の御名によって祈ります。

説教要旨(5月31日のために)