「人の子が栄光を受ける時」
加藤 智恵牧師 ヨハネによる福音書 12章20~36節
イザヤ書 63章1~9節
過越しの祭りの時、何人かのギリシャ人がいました。彼らは、フィリポに「お願いですから、イエスにお目にかかりたいのです」と頼みました。ギリシャ人がイエス様のもとにやって来たのは、キリスト教が世界的に拡がって行く前触れであったと言えます。イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。イエス様は弟子たちに、人の子は十字架に掛かり、全人類の罪を負って死ぬと言われました。この十字架に上げられる時が、人の子が栄光を受ける時です。それは、この世的には敗北に見えますが、その姿の中に、全人類の救いを完成するという偉大な業が示される時であります。もし、主イエスが人々の願いによってこの世の王となったら、多くの人類が主イエスによって救われ、豊かな実を結ぶことは出来ませんでした。主イエスが犠牲になって死ぬことによって、イエスが栄光を受けられたように、主イエスを信じる者は、同じ様に神に大切にされるのです。一粒の麦は地に落ちて死ななければならないのです。死ねば多くの実を結びます。
けれど主イエスは人間であって、死に直面した時、苦悩を感じられました。公生涯に入られる前に、悪魔の誘惑には勝利された主イエスでしたが、十字架の刑はもっと苦しいものでした。「今わたしは心騒ぐ。なんと言おうか。『父よ、わたしをこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現して下さい」と祈られました。
主イエスが祈られると、天からの声が聞こえました。その声は「わたしは既に、栄光を現した。再び栄光を現そう」という事葉でした。「既に栄光を現した」ということは、イエス様の受洗、奇跡、山上での変貌などを言っており、それは神の業であり、栄光を現すことでした。「再び栄光を現す」ということは、主イエスの十字架の死を現しています。イエスの死は勝利の死であり、人間を罪から解放するものであり、イエスに敵対する者を裁く力なのです。
主イエスの生涯は、自分の為ではなく、貧しく、しいたげられている人々の為でした。また、悪にそまっている人類を、悪から救い出す為でした。自分の楽しみ、自分の欲望を満たす為ではなく、神の御心を行なう為に命を捨てられたのです。ここに、本当の勝利の姿が描かれています