「世の悪を取り除く神の小羊」
加藤 智恵 牧師
ヨハネによる福音書 1章29~34節 イザヤ書 42章1~9節
本日の新約の聖書個所は、バプテスマのヨハネの主イエスに対する証言が書いてあります。民衆は救い主が来るのを、今か、今か、と待っていました。そしてバプテスマのヨハネが来るべき救い主ではないかと考えました。ユダヤ人の指導者たちは祭司やレビ人を遣わして「あなたはどなたですか」と質問させました。ヨハネは「あなたはメシアですか」「あなたはエリヤですか」「あなたはあの預言者ですか」と3つの質問を全て否定しました。祭司やレビ人たちは、指導者たちに報告しなければならないので困ってしまった事でしょう。
その翌日、バプテスマのヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て「見よ、世の悪を取り除く神の小羊だ」と彼らに言いました。祭司やレビ人がバプテスマのヨハネの事を尋ねていたのに、それに優るイエスがヨハネのもとにやって来たのです。ヨハネは祭司やレビ人に「わたしの後から来られる方こそ、あなた方が求めている方である。わたしはその方の履物の紐を解く値打ちも無い者である」と言っていました。そして、今やその方がここに来られた。「霊が降って、ある人に留まるのを見たら、その方こそ聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉を頂き、ヨハネはその方を待っていたのです。その人が来られた事をヨハネは見て、「私は霊がこの人に留まるのを見た」。だから、この方こそ神の子であるとあなた方に証ししたのである、と言っています。ヨハネに優る「神の子が来られた」という事実を、ヨハネは証言しました。
次に来るべきメシアとはどのような人かが書いてあるイザヤ書42章1~9節に移ります。主の僕の召命です。僕の役割は神への奉仕をする事です。「見よ」で始まる僕の資格は、神が「支え」「選び」「喜び」「霊を授ける」ことにあります。主の僕は国々に「公儀」をもたらす事にあります。僕の働きは失われた人間の回復です。見ることの出来ない目を開き、捕われた人を枷から、闇に住む人を牢獄から救い出します。人間がまだ経験もせず、予想もしない事。登場する主の僕は全く人の思いを超えています。それが芽生えて来る前に先駆者を遣わして、神はあなたたちにその事を伝えよう。このように主の僕の召命が、遥か昔のイザヤの時代紀元前700年に預言されています。
神はご自分が創造された天地万物と人間を愛しておられます。私たちは神の深い愛に支えられているのです。その深い神の愛に応える事が、私たちの神への奉仕であるのです。主の僕としてお生れになられたイエス様に倣う姿が神への奉仕の姿です。