「思い煩うな」 加藤智恵牧師
マタイによる福音書 6章25~34節 詩編 37編23~29節
新約のマタイによる福音書 6章では、イエス様の評判を聞いた人々が、周辺の町や遠くの国からやって来ました。イエス様は小高い丘に登られると、話を始めました。山上の説教です。本日の説教は、人間が生きるために欠かせない物を十分持ち合わせていないで、自分の命、自分の体の事で心配している人たちに、思い煩ってはならないと言っています。
イエス様は命の大切さを空の鳥に例えています。空の鳥は蒔く事も刈る事も蔵に納める事もしません。その日その日を生きています。毎朝、鳥は楽しそうにさえずっています。小鳥たちは何を食べてあんなに元気にさえずっているのか、と思いますが。彼らはあっちの枝、こっちの枝と飛び交いながら、その木に生っている小さな木の実を食べています。自分たちが一番幸せだと言わんばかりです。このように天の父は鳥を養って下さっています。まして「あなた方は、鳥よりも価値ある者ではないか」と言っておられます。また、「何故衣服の事で思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と野草に目を留めるように促します。そこには真っ赤なアネモネの原種の花が群生していたと言われています。野の花は働きも紡ぎもしません。けれど栄華を極めたソロモン王よりも優る装いをしているのです。神は野の花をこのように美しく育てておられるのです。神はましてや、あなた方にはなおさらのことではないか、と言っておられます。
神は食べ物、飲み物、着る物、これら全てが人には必要である事を知っておられるのです。だから、何をさておいても、まず神の国と神の御心を求めなさい。そうすれば、食べ物、飲み物、着る物は全て与えられると言われます。だから、明日の事まで思い患うことはない。明日は明日自らが思い煩う。思い煩いは何の役にも立たないのです。
旧約の詩編37編は「知恵と教訓の詩編」と言われています。主は人の一歩一歩を定め、神様の御心にかなう道を備えて下さいます。人は倒れることがあっても、主がその手を捕らえて下さるので、全く打ち捨てられるのではありません。高齢になった人生経験豊かな人は、主に従う人が捨てられ、その子孫が食べ物に困り、物乞いになるのを見た事がないと言っています。人々を憐れんで貸し与えた人の生涯は、その祝福が子孫にまで及ぶのです。悪を避け、善を行なえば、いつまでもその地に住み続ける事が出来ます。主は正義を愛される方です。主の慈しみに生きる人を見捨てることなく見守り、主に逆らう人の子孫を断たれます。主に従う人は、嗣業の地を受け継ぎ、いつまでもその地に住み続ける事が出来ます。旧約の詩人の中に、神を求めるひたむきさが感じられます。
そして詩人たちが思いも付かなかった神の子がこの世に来られて、御国の教えを教えて下さいました。イエス様が教えて下さった山上の説教は驚きに満ちています。また、私たちがどのように生きていけばよいのかを、指し示しています。イエス様は実行不可能なことを言っておられるのでは決してないのです。