「地の果てまですべての人が」
加藤 智恵牧師
イザヤ書52章1~10節    ヨハネによる福音書 7章25~31節

エルサレムの民は神の民でありながら神に背き、神を忘れてしまいました。そのため本来の神の民となるために、神から試練が与えられます。エジプトに寄留中のイスラエルの民はエジプトの奴隷となり、過酷な労働を課せられました。また、アッシリア人は北イスラエルの民を理由無く捉えてゆきました。バビロン捕囚は3度に渡って行なわれました。祖国イスラエルは廃墟と化してしまいました。本日のイザヤ書52章1~2節には、イスラエルの回復が書いてあります。失望落胆しているイスラエルの民に、イザヤを通して主は語られます。「無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない」(1節)。解放を告げられるエルサレムの姿はすがすがしいものです。
神は捉われたイスラエルの民を解放することによって、本来の聖なる全知全能の神となられます。7節は人間解放の最も優れた歌と言われています。いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和と恵みの業と救いを告げます。平和、恵み、救いとは神の福音を伝えることです。そして地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐようになります。これは、主イエス・キリストがこの世にお生れになることの預言です。そして、それが実現しました。
ヨハネによる福音書 7章に移ります。イエスは仮庵の祭りの時、神殿の境内に上って行き、教え始められました。ユダヤ人は「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と驚きます。イエスは「私の教えは自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行なおうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているか分かるはずである」と言います。エルサレムに上った人々は、これは人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言わないのは、議員たちはこの人がメシアだと認めたのではなかろうか。しかし、メシアが来られる時は、どこから来られるのか、誰も知らない筈だ。しかし、私たちはこの人がナザレ人と呼ばれているのを知っている。イエスの出身を知っている群衆はつまずきを持ちました。確かにイエスはナザレで育ちましたが、聖書の預言(ミカ書5:1)の通りに、ベツレヘムでお生れになったのです。人々はイエスを捉えようとしましたが、手をかける者はいませんでした。イエスの時はまだ来ていなかったからです。地上でしなければならないことを終えてから、イエス様は罪ある人間を救うためには、自分が死ななければならない事を御存知でした。そして神から遣わされた使命を全うするために、全身全霊でご自分の道を歩まれていったのです。

説教要旨(12月1日)