「み言葉を聞いて行なう」  加藤智恵牧師
ヤコブの手紙 1章19~27節   アモス書 5章18~24節

ルターは人は行いではなく、信仰によって義とされると強調していましたから、行いを強調するヤコブ書を藁の書と言っていました。それはルターが修道僧として懸命に行いを守ろうとしても守ることができずに苦しんでいたこと。また、カトリック教会の堕落に失望し、人は行いによっては義とされず、キリストを信ずる信仰によって義とされるという「信仰のみ」ということを知ったからです。しかし、ヤコブはルターの信仰理解とは違って、行いの伴わない信仰は信仰ではない、と言っています。それは、当時のユダヤ人キリスト者は貧しい者が多く、信仰生活よりも世俗に走ろうとする人が多かったと言われています。むさぼり、ねたみ、争い、おごり、高ぶる者もいました。信仰も愛も抽象的で、具体性と行動に欠けていました。誘惑は強い力で彼らを襲い、不平不満が充満していて、まさに信仰的な危機状態にありました。主イエスの弟であるヤコブはエルサレムにあって、教会は不義や不道徳を許すべきではない。試練と迫害の中にある彼らに望みを与え、終りまで耐え忍ぶことを説き、信仰と行為に関しては、特に実践面を強調して書いています。
本日の聖書箇所には、神の言葉を聞いて、実践することの大切さが書かれています。「聞くのに早く」とは聞き上手ということです。まず、人の話をよく聞くということです。簡単なようで、人の話しを聞くことは難しく大事なことです。よく聞いてもらえただけで、人は自分の荷が軽くなります。「話すのに遅い」とは、思慮深く話すことを意味しています。「怒るのに遅い」とは、人の怒りは神の義を実現しないからです。怒っている人よりも、いつも喜んでいる人の方が、周囲の人々を明るくします。「御言葉を行なう人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはいけません。」これも大切なことです。私は御言葉に聞き、祈るということを大切に考えていましたが、実行が伴わなければ何もなりません。しっかりと御言葉を聞き、実行することの大切さを感じました。
信仰とは漠然的なものではなく、聖書からしっかりと神の言葉を聞き、舌を制して良い業に励むことであります。この世の悪から自分を守り、神の言葉に従って、良い信仰の実を結ぶようにと神は願っておられます。
旧約のアモス書5:18~24から主の言葉を聞きたいと思います。イスラエルの民は主の日を救いの日、栄光の日として待ち望んでいました。しかし、その日はもはや輝く日ではなく、悲惨と暗黒の日となりました。なぜならば、イスラエルの民は神の言葉に聴き従わず、悪に悪を重ねていたからです。アモスは警告します。人が獅子の前から逃れても熊に遭い、家にたどり着いても壁に寄りかかると、その手は蛇に噛まれるようなものだ。もはや彼らを救う者はなく、拠り所となる物は消えてしまった。このようなイスラエルにとって、主の日は闇であって光ではない。暗闇であって、輝きではない。この後、イスラエルの民は、70年間、バビロンの地へ捕囚として連行されることになります。
私たちは、神の恵みの中に生き、いつも良い業に励み、神の喜ばれる生活を重ねていきたいと願います。

説教要旨(9月1日)