「霊に導かれて生きる」 加藤 智恵牧師
ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節 サムエル記 上 24章8~18節
誘惑によって道からはずれた人を立ち返らせるために、教会の兄弟姉妹がしなければならない事は3つあります。1.柔和な心で正しい道に立ち返らせること。2.自分自身も誘惑に陥らないように気をつけること。3.互いに重荷を負うこと、それは、互いに愛し合うことでもあります。
続いては自分の思いに対する警告です。私たちは本当は何者でもないのですから、自分を誇ることがあってはならないのです。私たちは皆、主によって罪赦された者です。そして弱い部分があり、悔い改めて神に新しくされて歩んで行く者です。自分をひとかどの人間だなどと考えるのは間違いです。そしてめいめいが自分の重荷を担うべきです。各自がそれぞれに自分で負わなければならない重荷を持っているのです。その自分の重荷を負ってこそ、人の重荷も担うことが出来るのです。
神は人から侮られる方ではありません。神は全てを御存知です。自分の肉、つまり自分の欲に蒔く人は滅びを収穫し、霊つまり神の為に蒔く人は永遠の命を刈り取ります。飽きずに正しい善を行なうことによって、時が来て実を刈り取ることが出来るようになるのです。私たちは誘惑に陥らないように気を付け、神の為に良い業に励むことが求められています。神はその業に報いて下さるのです。善を行なうことは、キリスト者の大切な務めです。
旧約のサムエル記から霊に導かれているダビデについて学びます。少年ダビデはペリシテ人の巨人ゴリアトとの戦いで、小石一つで勝利しました。そしてイスラエルの初代の王サウルに仕えます。サウル王はダビデがどこに行っても勝利し、人々が「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌い交わしているのを聞くと、サウル王はダビデをねたみの目で見るようになりました。そして悪霊が激しくサウルに降り、物に取りつかれたようになってダビデの命を狙いました。それからダビデの逃亡が始まります。逃亡中のダビデはサウル王を殺す機会があったのですが、サウル王の衣の裾を切り取って、手を下すことはしませんでした。ダビデは「わたしの主君であり、主が油を注がれた方にわたしは手をかけ、このようなことをするのを主は決して許されない」とまで言うのです。ダビデは「イスラエルの王は誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか」とサウル王に言います。窮地に立たされたダビデは主に祈ります。「主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救って下さいますように」と。サウル王は「わが子ダビデよ。これはお前の声か」と言って声を上げて泣き、「お前はわたしより正しい。お前は私に善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」と言います。サウル王は神に選ばれた初代の王であって、このような心も持ち合わせていたことを知ります。また、サウル王はダビデの寛大さを見て、必ず王となるべき人であることを認めました。
ガラテヤの信徒への手紙4章19節でパウロは「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と言っています。パウロが教えた福音を忘れてしまった人々に、パウロはキリストの心を宿すように立ち返って欲しいと切に願っています。神は招かれた人がキリストの心を持つようになることを望んでおられるのです。