「何の権威によってしたのか」 加藤智恵牧師
使徒言行録 4章5~12節   申命記  8章11~20節

ペトロとヨハネの2人は午後3時の祈りの時に、神殿に上ってゆきました。そこで生まれつき足のなえた男に出会い、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」と言って、右の手を取って立ち上がらせました。すると、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しました。民衆はこの出来事に驚きました。そこでペトロは説教をします。「イスラエルの人たち、何故このことに驚くのですか。私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか」。2人がこのように民衆に話しをしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来て、2人が民衆に説教し、イエスが死者の中から復活したことを聞いて苛立ち、2人を牢に入れました。その翌日、ペトロとヨハネは最高法院の議会で「お前たちは、何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と取調べを受けたのです。その時、ペトロは聖霊に満たされて、議員や民衆に「この人が良くなって皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架に付けて殺し、神が死者の中から復活させられた、あのナザレ人イエス・キリストによるものです」と大胆に語りました。「この方こそ神殿を支える一番大切な隅の頭石なのです。このイエスは人々のつまずきとなり、人々から捨てられ、十字架に架けられ死にました。このイエスこそ全人類を救う為に捨石となったメシアなのです。このキリスト・イエスの御名を信じ告白する以外に、全世界のどこを探しても、誰にもこの救いは約束されていないのです。」
「何の権威によってこういうことをするのか」と問うた議員たちでしたが、その答えは「主イエス・キリストの御名によるものです」と2人は答えました。私たちはお祈りをしますが、その最後に「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と言います。このようにイエス・キリストの御名には力があるのです。
旧約の申命記は、これからヨルダン川を渡って約束の地カナンに入る前に、モーセがイスラエルの民に律法を再び申し聞かせる内容です。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、財産が豊かになって心驕り、あなたの神を忘れないようにしなさい」(8章12節)。人々は何一つ不自由しなくなると、神への感謝を忘れ、あたかも自分がこの財産を築いたと思ってしまうものです。傲慢になり主に従うことを忘れてしまいます。主はエジプトの奴隷の地からイスラエルを導き出して救って下さいました。そして40年間、水の無い乾いた広くて恐ろしい荒れ野を行かせました。それは、イスラエルの民を苦しめて試し、ついには幸福になる為でした。信仰の段階を深めて本当の幸福を得るためには、神様から受ける苦しみと試練が必要なのです。苦しみに遭うことは、私たちが神に愛されている証拠でもあります。
本当の権威は主とその御名にあります。私たちはどのような時にも、神に深く愛されている者であることを忘れないようにしたいと思います。私たちは理不尽な試練に遭っても神を信じて、必ず幸福が来ることを信じて歩んでまいりたいと願います。

説教要旨(6月30日)