「イエスは生きておられる」 加藤 智恵 牧師
ルカによる福音書 24章13~35節 列王記 下 7章1~16節
悲しみに打ちひしがれて、2人の弟子がエルサレムを離れ、エマオに帰って行こうとする時に、ある人が傍に来て「歩きながらやりとりしているその話は何ですか」と呼びかけて、主イエスは2人の会話の中に入られました。2人は「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある指導者でした。私たちは、あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていたのです。それなのに私たちの祭司長たちや議員たちは主イエスを死刑にするため、ローマの者たちに引き渡して、十字架に付けてしまったのです。ナザレのイエスが死んでもう3日目になります。ところが、仲間の婦人たちが朝早く墓へ行きました。遺体を見つけることが出来ませんでした。そして天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたのです。」と言いました。死んだ人が生き返るなどということは有り得ないでしょう。とても信じられない、という言葉が含まれています。そこで主イエスは答えます。「ああ、物分りが悪く心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たちよ。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」
主イエスはそこで2人が納得できるように旧約聖書の全体にわたり、ご自分について書かれている事を説明されました。2人は道々主イエスの話しを聞きながら、次第にイエスに対する思いを変えられていきました。2人は無理にイエスを引き止め、一緒にお泊り下さいと願いました。食事の席に着き、イエスはパンを取り讃美の祈りを唱え、パンを裂いて2人にお渡しになりました。すると2人の目が開けイエスだと分かりました。折角、弟子たちと食卓に着いたのですから、食事が終わるまで2人の弟子たちと一緒に過ごされたらよかったのにと思いますが、弟子たちの目を開かせることが目的でしたから、主イエスの姿はすぐに見えなくなりました。2人の弟子たちは急いでエルサレムに戻り、互いに主イエスは生きておられることを喜び合ったのです。そして今も主イエスは生きておられて、私たちを見守っておられるのです。
旧約の列王記 下の預言者エリシャに触れたいと思います。サマリヤが飢饉に襲われていた頃、敵対するアラム王ベン・ハダトがサマリヤを包囲します。サマリヤでは、女が自分の子どもを煮て食べるような凄まじい状況に陥ってしまいます。そのような時、エリシャは、明日の今ごろ、主の救いが実現し、サマリヤの城門で、穀物が安い値段で売られるようになる、と主の言葉を預言します。王の従者は「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」と言って、エリシャの言葉を信じませんでした。主がアラム軍の陣営に戦車の音や軍馬の音を響き渡らせたので、アラム軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。サマリヤの民は主の言葉どおり穀物を手に入れることが出来ました。そして預言を信じなかった王の従者は神の言葉を軽んじたので、エリシャが預言した通りに城門で民に踏み潰されて死にました。神の言葉を軽んじることは、エリシャの言葉から大きな罪であることを知らされます。それに反し、神を信じ敬う者は、どのような災難からも復活することが書かれています。ここでの復活とは、廃止されたものをまた生かし使うこと、という意味で使われています。様々な試練に合っても、元のように良くなるということです。「神は生きておられます」。全てを御存知で、神を信じ、神を敬う人に報いを与えられるのです。