「イエス、ひとりで祈る」 加藤智恵牧師
ルカによる福音書 9章18~27節  イザヤ書  63章7~14節

主イエスが5000人の給食をした後のことです。主イエスは群衆を離れて、一人で祈っておられました。12弟子がそこにいました。主イエスは神と結び付いていましたから、度々一人で祈ることがありました。主イエスは一人で祈られた後に、「群衆はイエスを何者だと思っているか」と弟子たちに尋ねます。弟子たちは言います。「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「昔の預言者が生き返ったのだ」と。主イエスはそれでは弟子たち自身がどう考えているのかを問います。ペトロは「神からの救い主です」と答えます。これはペトロが自分で考えて言った言葉ではありません。聖霊の働き、神の啓示によって答えた言葉です。
主イエスは弟子たちを戒め、そのことを誰にも話さないように命じて、次のように言われました。これは「主イエスの受難予告」または「メシアの秘密」と言われている内容です。イエスをキリストと信じることは、命がけのことなのです。理解の出来ない者に話してはならないという命令です。人は大事なことは他人にはたやすく話すことはありません。そして主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日目に復活することになっている」と言われました。第1回目の受難予告です。主イエスは苦難の道に突進するのです。この苦難の道のかなたに復活が待っています。
主イエスはご自分と同じように、弟子たちも苦難の道を歩まねばならないことを教えられました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしにしたがいなさい。」と言います。自分を捨てるとは自己否定をすることであり、日々十字架を背負うとは、信仰のゆえに受ける辱めを忍ぶことです。そして主イエスに従うことです。イザヤ書63章9節には、主は彼らの苦難を常にご自分の苦難として下さる、と書いてあります。ですから、私たちは主イエスに従って行けるのです。
弟子たちは、主イエスが苦難を受けること、そんなことはあってはならないと思いました。その先に復活が待っているとは、闇に閉ざされているような弟子たちには理解できないことでした。復活とは何かも、考えることができない弟子たちでした。

説教要旨(3月24日)