「新しい教え」 加藤智恵牧師
ルカによる福音書 5章33節~39節
エレミヤ書 13章1~11節
ユダヤの人達は主イエスの行いを見て、「バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは、断食をしたり祈りをしているが、あなたたちは宗教的生活習慣である断食や祈りに励まず、飲んだり食べたりしているではありませんか。これは一体どういう事ですか。」と厳しく問い詰めます。それに対して主イエスはご自分を婚礼の花婿に譬えて言いました。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友達に断食させる事があなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」今、救い主である自分を迎えた弟子たちは、婚礼に招かれた客のように大いに喜んでいるのだから、飲んだり食べたりしてその喜びを表しているのは、当たり前であると主イエスは答えられました。救い主に出会ったという事は、それ程大きな喜びなのです。
その後、主イエスは3つの小さな例え話をされました。1.「だれも新しい服から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない」これは、主イエスのメッセージを自分たちの古い考え方に、継ぎを当てようとする間違いをいった物です。2.「だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない。そんな事をすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も駄目になる」これは、古い硬化した考え方を持ったまま、新しい教えを全て受け入れるなら、自己矛盾を引き起こす事になると言っています。3.「古いぶどう酒を飲めば、誰も新しい物を欲しがらない。古い物のほうが良いと言うのである」これは、ユダヤには律法があると言って、偏見と思い込みから主イエスの新しい福音を聞こうとしない態度です。
旧約では、エレミヤに「上等な帯をユーフラテス川の岩の裂け目に隠しなさい」という主の言葉が臨みました。多くの日がたってから、主はエレミヤに隠しておいた帯を探させます。帯は腐敗しており、役に立たなくなっていました。神の作品であり、神の宝の民とされた人でしたが、次第に腐敗堕落してゆく姿を麻の帯で象徴的に表しています。神はどれ程、失望されたでしょうか。そこで神は人間の罪を取り除くために、罪の無い神である御子をこの世に遣わされたのです。神は失敗のままに終らせるような方ではありません。自分の御子を犠牲にしてまで、私たちを救おうとされるお方なのです。その御子、主イエスによって全く新しい教えが語られるようになったのです。